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2006年12月30日 05:29更新/執筆者:宮内俊宏 写真:清水隆史、平松マキ(※※)

2006年10月28日(土曜日)から8日間開催された・N-ex1 SHOWCASE N
アートの遊園地「nana*t land」での最終夜、独自の表現を志すアーティストが次々と登場、
無双のパフォーマンスを繰り広げました。どれひとつ、類似のものはありません。
特集:[ N-ex1] SHOWCASE N を記録する 〜これも後編〜
最終日を迎えた西之門よしのやは展示された作品がすっかり馴染んで、作品の持つ体温で会場の壁も空気も心地よく暖まっているように思えました。8日間よりもずっと長い間「ちぎり絵」や「SELECT N」や「nana*t land」がここにあったかのような愛着感。最終日だけ出現した「nana*t shop」も、ずっと前からそこに開店しているかのように感じます。
8日間純度の高いエネルギーに満ちていたこの会場は、そのエネルギーが隅々まで行き渡って、とても温度の高い生きた建物になっていたのです、きっと。そんな観念的な説明に頷いてしまいそうな不思議な暖かさが、確かにこの会場には生じていました。11月4日、連休中日の土曜日。生きたアートが作り出した会場の体温に、これからライブ・パフォーマンスの体温が加わるのです。最後にはどんなことになるのか楽しみな一日の始まりでした。
「前編」でお伝えした、玉井健司さん、宮下ちとせさんによる朝摘み野菜やお菓子を使ったインスタレーションは、この日の朝から始まっていました。
朝、八百屋さんからその日に収穫された野菜が届いて、玉井さんはそれを眺めながら思案顔。傍らで始まったライブの準備、リハーサルを尻目に野菜と格闘。少しずつ、いろいろな野菜が組み合わさって行きます。瑞々しい赤や緑の野菜が鮮やかに組み合わさって行きます。やがて、宮下さんも到着。なにやら、いろいろな色と形をした焼き菓子が箱から取り出されます。ホールの真ん中に大きな水槽が設置されました。砂利や砂のかわりにきな粉が敷きつめられた水槽です。あ、水は入ってません。そして、そこで棲息する生き物のように、水槽の中にいろいろなお菓子が置かれていくのでした。あたりには甘い香りがほんのりと漂う、不思議なお菓子の水槽です。
そんな、最高に高密度になったその部屋で、夜には音楽のライブ・パフォーマンスが行なわれました。
出演したのは5組のアーティスト。稀少な表現分野である薩摩琵琶を演奏する佐々木謙一、長野音楽シーンでゆったりと歌い続けているチョコレートタウンオーケストラ、京都のアヴァンギャルド女性ユニットの先駆的な存在であるベートルズ、映像とインプロビゼーションを組み合わせた無双の表現体・CINEMA dub MONKS、歌とピアノだけで新しい表現を開拓し続けるタテタカコ。
表現分野もパフォーマンスの性質もばらばら。いわゆるジャンルといわれる観念はまったく介在しないラインナップです。共通点は独自性。時代を流れるトレンドなどどこ吹く風で、自分の表現を徹底的に実践し続けている人達です。

薩摩琵琶という楽器の存在を意識することは普段あまりないと思います。演奏する人はかなり少なく、たぶん聴く機会もほとんど皆無ではないでしょうか。
けれど、その独特なフォルムと音色はきわめて興味深いものです。ボディ撥弦面の緩やかな膨らみは古楽器としてはとても高度な構造で特徴的な形であり、ネックから調弦部分へかけての曲がり方は優美で独特な姿をしています。リュートのような原初的な撥弦楽器に共通した少し篭った減衰の早い音色も哀感を帯びた美しい響きで、現代の音楽の中にもっと登場しても良いのではないかと思える魅力的な楽器です。最近、先鋭的なショーケースを行なっている東京・浅草の小さなカフェや、新モノ好きな大人が夜中に集まるクラブなどで何回か、薩摩琵琶の演奏会の告知を目にしました。けれど、実際にその実演がどのように行なわれるものなのか、まったく未知の表現でした。
佐々木謙一さんは長野県飯田市在住。伝統的な薩摩琵琶の古典作品には教条的な内容や合戦物が多いようですが、佐々木さんはそういった古典だけではなく、「松谷みよこ作品集」や地元・伊那谷の伝承など、身近な題材を基に独自の解釈で薩摩琵琶と語りによる表現を探求しています。
この日、彼は藁を束ねて作った「藁鉄砲」を持参して演奏の始まる前に会場の人々に配りました。上伊那地方出身の彼のおばあちゃんから取材した「十日夜(とうかんや)」という物語のクライマックスで、会場中の人が藁鉄砲を振り上げて遊ぶのです。薩摩琵琶の演奏を初めて目にする人達にも、これはとても楽しいパフォーマンスでした。音楽を演奏するだけではなく演劇性を伴った相互表現。この楽器を使ったこういう趣向のパフォーマンスが鍛錬されて、演劇的な側面や語りの迫力、音読する言葉の力が魅力的に昇華していったら、楽器の持つエキゾチックな魅力と重なって、もっと広く認知される表現分野になるのではないでしょうか。
現状、薩摩琵琶という楽器は実演の機会が少なく、人前で演じながら表現を鍛錬したり奏法を進化させたりすることが充分にはできていないと思います。できれば、こういった日本の古楽器、一般的に認知された伝統楽器である三味線、三線や琴のような外向的な音色とは違うキャラクターを持った古楽器が、もっと近代楽器と拮抗するようになったら面白いのではないでしょうか。近代の音楽と隣接する位置で独奏されたり、一緒にアンサンブルされるようになったり、奏法や楽器の構造も改良されて演奏性が向上したり、ロックやジャズ、演劇や映像や、その他いろいろな表現と融合したり共演したりするようになって近代的な表現分野として発展して行くことになったら、それはとてもわくわくすることだと思います。

2番目に登場したチョコレートタウンオーケストラは、ヴォーカルの原耕太くんの歌声がとても強く響くバンドでした。彼はいろいろな形で、ずっと長野で歌っている人です。パンクバンドで叫んでいたり、一人で弾語りをしていたり。もちろん、ずっと長野の音楽シーンを見ているわけではないのであまり正確ではありませんが、長野の音楽シーンの特色を纏っているアーティストのひとりなのではないでしょうか。
長野の、とくに長野市にある音楽シーンにおいて、そこをホームとする音楽には少しくぐもった印象の表現が多いように感じます。それは、曲調が明るいとか暗いとか、表出した部分のことではなく表現のあり方に関することです。長野に留まって活動している人達にも、積極的に外へ出かけて行っている長野出身の表現者にも、たぶんみんな少しずつ共通している印象です。もちろん、そうではない人がいないわけではありません。けれど、おしなべて「長野的だなあ」と思える表現者にはそんな印象が多いと思います。つまり、そのときのトレンドに乗ったフォーマットを賢く取り入れて、時流に乗った溌剌とした表現活動を行なう人は、この長野の雰囲気にはあまり親和しないような気がします。自分のできることをとことん続けて、全国的になろうと世界に繋がろうと、ずっとそのままの人。そんな表現者が多いような気がします。
どちらが良いという意味ではありません。ただ、ゆっくりと自分の素材を確認しながらローカルシーンの中で素朴な活動を続ける人達がいて、そんな表現者達のことをちゃんと知っている街の人達がいて、そんな人達が日常的に声を掛け合う優しい関係が、アートの棲みやすい社会なのではないかと思います。アートと生活が乖離してしまった日本の社会の中で、僕がネオンホールや長野の音楽シーンの様子に魅力を感じるのはそんなことだったりするのかもしれません。
その観点では、バンドの完成度や技量的な評価は二の次で良いことがあります。たぶんものすごく脱力した、完成度を目指した演奏ではないチョコレートタウンオーケストラが、少なくとも今のこの4人のフォーマットは原くんの歌声をとても生かしていて、ゆったりとした南国的なアンサンブルに乗って聴こえて来るヴォーカリスト・原耕太の歌声は、強く明るい破裂感のある、彼の表現者としての魂を存分に感じさせる気持ちのよい表現でした。
彼らはこのまま、いや、変化するだろうけれど、このまま10年たってもこんなゆったりしたムードで、ずっとこのシーンにいて欲しいと、歌を聴き終わったとき僕は思いました。

ベートルズこと渡辺智江さん。もう、その独特なキャラクターを最大限に発揮する高度なパフォーマンスは、なにも言うことありません。とにかく、彼女が街にやって来たらみんなこぞって集まるべきです。ほんと。
豊かな音楽の発祥地、京都。1990年代以降、日本の音楽シーンに決定的な影響を与えたアーティストを多く輩出する一方で、アヴァンギャルドな女性アーティストを豊富に誕生させ育んできた街です。アヴァンギャルドな女性というのはアートにとってたぶん特別な意味があります。フォーマットから入る男に比して、直感的でアナーキーな女性の方が、個性的な表現に到達したときの振りきれ具合はかなり高いものです。たぶん京都には、ちょうど手頃な街の大きさ、人口、余地、人々の関係、ぼぉっと立ち止まっていられる隙間があって、独創的なちょっとはみ出した人達が長い時間に渡って生活して行ける街なのです。そんな京都に多く存在するアヴァンギャルドな女性アーティスト群。その中でも先駆的な存在であったザ・コケッシーズを牽引していたのが渡辺智江さん、つまりベートルズです。
ゆったりとした切ない歌を暖かい愛らしい声で聴かせてくれるのが彼女の歌の魅力です。とても癒される音楽です。けれど、そんな解りやすいひとことでは終わらないのがベートルズでした。演奏も後半にさしかかると、急激に歌う曲のヴァリエーションが広がり始め、きれいなメロディーだけではない、澱みなく矢継ぎ早に繰り出される言葉がアコースティック・ギターと絡み始め、どこまでが即興のお喋りなのか、どこまでがフレーズとして決められた言葉なのかわからない、面白さと巧みさが見事に絡み合った、おそらく他に比肩する者のないベートルズ・ワールドへと会場を引きずり込んだのです。これは思わず拍手喝采でした。
歌表現の面白さにそのまま連結した楽しいMCを挟みながら、終始にこやかにライブは進みます。どこからMCだったのか、気がついたらMCになってたりします。MCの途中から少しずつギターが鳴り始めたと思ったら、気づいたらもう曲が始まっていたりもします。パーカッシヴなギターのカッティングと言葉で生み出されるグルーヴ。突然止まったギターの後に言葉だけが残ったり、いくつもの方法で言葉が聴き手に届けられます。そのあたりの呼吸や、パフォーマンスを進めてゆくテンポ、アクセントなど、もう巧み!としか言いようのないものなのです。会場は渡辺智江さんの醸し出す雰囲気でゆったり、のんびりなったり、笑いに包まれたり、驚いたり、本当に心から緊張が吐き出されて行くような、楽な気持ちになれるライブ・パフォーマンスなのでした。リスペクト。

CINEMA dub MONKS。沖縄のシネマティック・ジャム・ユニット。曽我大穂が操るフルート、木琴、ピアニカ、パーカッションや街の雑踏、風の音、生活の音など、サンプラーによる様々な音と、ガンジー西垣のウッドベースによる即興演奏、そして、石川徹によって即興的に映写される映像。3人のインタープレイによって進んでゆく映画のような、映画の中の音楽のような、音楽に連れられた映像のような、なんとも形容の難しいパフォーマンスです。言葉で記録することはとても困難。
きっと、その世界に飲み込まれたときのトランス感は直感的な記憶に結びつくのです。それぞれがバラバラに、けれど関係を持って進む即興演奏と、視覚に具体的に注入される光、映像の存在が、真っ暗な部屋の中で強烈に感覚の原始的な部分に働きかけて来ます。それがどういうものか解釈するため言葉に変換しようとしていると、映像の光の波にのぼせてボォッとしている自分に気がつく。視覚と思考の関係でそうなるのか、何なのか、とにかく、その中で何かを考えようとするのが難しいパフォーマンスでした。
CINEMA dub MONKS は長野初登場。ネオンホールに来たことがあってもしかるべき表現なのですが、曽我大穂くんが、その前身バンドのときに来たことがあるだけ。意外です。この数年、彼らはヨーロッパでの活動によって評価が高まり、イギリスのジャズ・レーベル「Softly」からアナログ盤をリリースしたり、アシッド・ジャズの世界的なレーベル「トーキング・ラウド」の総帥にして BBC Radio 1 の看板DJであるジャイルズ・ピーターソンの2004年 "Worldwide Tracks Of The Year" に選曲されたりしています。ヨーロッパでの評価の高まりを受けるように2004年のフジロックフェスに出演。
音楽と映像のアンサンブルはけして稀な表現ではありません。けれど、大抵の場合、もっとわかりやすく機械的に計算されているか、でなければ単に流れるだけの映像だったり、幾何学的、抽象的な映像を使って音楽との親和性を高めようとしているものです。CINEMA dub MONKS の映像は風景や光、あくまでも具象的な対象を描いて、音も映像も、すべてがインタープレイによって進んでゆくのです。たぶん機械的に計算された映像よりも把握は困難で、音楽にリンクしやすい抽象的な映像のような端的な様式美はありません。けれど「音楽と映像を融合させました」と解り易く説明している表現にはない温度の高い詩情が、その表現を魅力のあるものにしているのです。そのときの表現者の感情の交流によってエネルギーが生じ、重量感のある物語を感じさせ、なにがどうという理屈ではなく、とても不思議で普遍的なネイティヴな感覚を生む。これがアートのひとつの姿、本当に古今東西無双の表現だと思います。彼らを長野に呼ぶ機会を持てて良かった。

8日間に渡るイベントの最後を締めくくるのはタテタカコでした。新曲を交えた5曲。
ここ1年、日本中を渡り歩いて様々なタイプの表現者達と過ごして来た毎日は、演奏時間の短いオムニバス・イベントであっても真価を発揮する強靭な表現力を育んでいたようです。柔らかなバラードから、アップテンポで強いビートチューン、アヴァンポップ的な難解なフレーズまで、自在に歌とピアノだけで表現しきってしまう豊かな表現力を垣間見せた演奏でした。表現の多様性を簡潔に聴き手に伝えるための発想は斬新さを増し、その斬新なフレーズを演奏するための歌とピアノのテクニックはより確実に鍛え上げられ、それぞれが彼女の中にある多種多様な抽出しの中から自在に取り出されるのです。たった5曲の短い演奏でしたが、その真価の片鱗を感知するには充分でした。
彼女こそ、いわば極めて長野的なアート感のあるアーティストかもしれません。自分の素のままの表現力を叩いて鍛えて飾らずに聴き手の前に提示する。より多くの人に自分の歌を聴いてもらうために、ひたすら自分の表現力を鍛錬して、その届く距離を伸ばそうとする。けしてキャッチフレーズやチャンスや仕組みを作ろうと努力することはしない。スタイルばかりを充実させたアーティストが多い中で、彼女の表現へ向かう真摯な姿勢には爽快感さえ覚えます。
この日のタテタカコは、四国・高知の山間、吉野川のほとりで続けていたレコーディングが明けた次の日、高知からそのまま移動して来ての演奏でした。録音されたばかりの新しい曲は少しハードなビートの強い数曲が冒頭で立て続けに披露されました。久しぶりに彼女のライブ・パフォーマンスに触れた人は、見紛うほどに力強さを増したタテタカコの歌とピアノ、凛と確信の漲った姿勢にきっと驚いたことと思います。あるときは怖ささえ感じるくらい。
けれど、MCになるとまったく変わらない、おずおずと小声で自信なさげなタテタカコ。あれはもう、いつまでたってもどうにも上手にはならないのでしょうか。まあ、どうでも良いのですが。
ビートの強い数曲の後に初期の名曲「心細いときにうたう歌」がゆったりと静かに歌われ、がらりと表情が変わります。新しい曲がまったく違うベクトルを持っているため、馴染みのあるこの曲の優しさが更にくっきりと際立って伝わって来ます。おそらくどんどんヴァリエーションを広げてゆく彼女の表現は、進めば進むほど一曲の表情がそれぞれダイナミズムを増して、歌とピアノだけなのにそうではない、豊富な楽曲群を形成して行くのだと思います。来年リリースされる一連の曲が今の世の中でどのように響くことになるのか、とても楽しみになる演奏でした。
最終夜、ここに集まった人達は、密度の濃い展示作品、とことんリサイクルされて進化したアイディアの数々、多種多様なライブ・パフォーマンスをきっと楽しんでくれたと思います。みんなが退出した後の会場にはほんのりと熱気がこもっていました。それはとても喜ばしい後味を含んだ熱気でした。どうなるかわからない膨大なアイディアに混乱しながらも、各パートに払われた熱意と創意によって、しっかりしたアートの足跡をこの街に置くことができた、その手応えとして、ここにこの熱気が残っているように思えたのです。
そして、最終夜に集まってくれた人達には、この日に創刊されたアート&ライフマガジン「季刊N」が配布されました。
日常の中にある普通の風景を魅力的な写真やイラストで描写した秀逸な雑誌「街並み」を月刊で発行しているナノグラフィカが、その独特なセンスと手法を踏襲しながら新しいコンセプトで作り上げた、街と人とアートの雑誌です。創刊号は「ナガノ音空間」という特集が組まれ、長野県内のあちこちにある音、音楽のある場所が写真と文で紹介されています。コンセプトもピックアップされた題材も、とても独自性のある魅力的な視点がはっきりと伝わって来ます。(季刊Nについてはこちら)

こうして、ウェブサイト、イベント、マガジン、性質の異なる3つのメディアの間にアイディアを循環させながら長野を面白くするプロジェクト・N[エヌ]が始まりました。けして順風満帆な始まりではありません。新しい仕組みで終着点のわからないことに取りかかったようなものです。混乱したり、衝突したり、何度もなんども困ったりしながら進んで行くにちがいありません。大変そうです。けれど、きっと長野の面白いことが見えてくるに違いありません。
次のイベント展開は2月。ふたたび長野市を舞台に「長野灯明まつり」の時期です。今度は N-ex1 SHOWCASE N とはちょっと違う趣向。nana*t やナノグラフィカ、ネオンホールが独立して開催するいくつかのイベントをN[エヌ]がユナイトするものです。今度はどんなことが見えてくるのか。楽しみです。詳細はまもなく。