
2010.02.23更新
1月末のある晴れた日。
一台の車がある学校にやってきた。
車の中には、たくさんの楽器。
積みおろしを手伝う。
重たい大きな袋には……いっぱいの川原の石。
別の袋には……太い竹筒が何本も。
「それ、重たいでしょう?無理しないでね、千曲川の川原の石だから。」
そう言って笑うのは、東信地区を中心に活動を続ける音楽家のオギタカさん。
日に焼けたその顔に浮かぶ柔らかな笑顔から、大地の香りがした。
わたしはこの日、彼の音楽活動のひとつである、ある学校での「音あそび教室」にご一緒させてもらった。
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ここで、簡単にオギタカさんのプロフィールをご紹介します。
オギタカ
作曲家。シンガーソングライター(ボーカル・ピアノ・ギター・ジャンベ・バラフォン・スティールパンなど)
映画音楽、舞台音楽、プレステーション等のゲーム音楽、TVやイベントのBGM等の幅広いジャンルの作曲を手がけている。
1966年長野県小諸市生まれ
中学時代、ブリティシュサウンドにはまりバンドを始める。
高校卒業後上京、ソロ活動や作曲の仕事をしながら世界各地の民族音楽にのめり込んで行く。
2000年拠点を小諸に移し、風土に根ざした曲や詩の制作を始める。
2003年よりモンゴルより伝わった地元民謡「正調小室節」を歌い始め、現在準師範。
2004年「音あそびの会」を発足。
現在、「ライブ」と「音あそび」の2本柱により長野各地で活動中。
(音あそびの会HP、オギタカプロフィールより)
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「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」
オギタカさんがこの日、持っていた絵本「アフリカの音」の中の一節。
彼は、「音あそびの会」にいつもこの本を持っていくのです。
音あそびの会の中で、読み聞かせをすることもあります。
彼がなぜ、この本を持って歩いているのか、読み聞かせするのか……。
この本の中に彼が人々に音楽を通して伝えたい想いが詰まっているからかもしれません。
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「アフリカの音」はアフリカ人の思想(命や精神が循環していくことの大切さ)を音楽や祭りを通して表現している本だと思います。
「すべてが循環していくことの大切さ」・・・ここはキーポイントかな?
「アフリカの音」に「命のつらなり ありがとう」みたいのがあったと思うけど・・・
命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくると思うのです。
現代の日本社会が忘れてしまったこと・・・・
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。
それが希薄になって来ている現代は孤独な人や独善的な人が増えているように思えます。
みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたらもっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません。
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オギタカさんに、ご自分のもろもろの活動にむける想いをお聞きしたら、こういう答えが返ってきました。
一昨年、あるイベントをきっかけにオギタカさんと出会いました。
そして、オギタカさんの音を聴きました。
初めていったライブは室内のものでしたが、その次に聴いた音は飯綱高原の大座法師池の上に設置されたステージでのもの。
どちらのライブも素晴らしかったのですが、オギタカさんの音楽に対して持っている想い、人に伝えようとしている鼓動、それが、この野外ステージでのライブでびりびりと伝わり、飯綱の森の中に染みこんでいったその感覚が忘れられなかったのです。
アフリカの楽器を中心にして彼が放つ音は、まるで大地の鼓動や風の歌のように聞こえ、木々のゆらぎや水のさざめきがそれを彩っていました。
次第に暮れていく周りの景色全体が音楽の中にとけ込んでいく感じ。
自分もまた、その景色の中に組み込まれて一体化していく不思議な感覚がそこにありました。
アフリカの人々は、楽器を使って会話をします。
祭の中に、神への感謝、生きることの喜びを歌い上げるときにも、楽器をかき鳴らします。
音楽とは、単なる表現ではない。命の叫びです。歓喜の声です。
オギタカさんは、自分の音楽活動を通して、こういうものを人々に伝え、届け、感じてもらう活動をしているのだ……と、私はそう感じました。
そんなオギタカさんの音楽活動を、ここから少し追いかけてみたいと思います。
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オギタカさんの想いは、さらにこう続きます。
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音あそびは「ひと時の夢」なのだと思います。
でも参加者がその中で何か感じ取って、それが心のどこかにすこしでも残ってくれれば嬉しいです。
もちろん義務でやっているわけではないので一番楽しんでるのは僕自身なんですけねどね(笑)
ライブに関しては好き勝手にやってるだけです。
自己表現としてあまり色んな観念に縛られたくないと言うが本当のところです。
でも音あそびから得たグッドバイブレーションが自然にライブに反映されることは望みです。
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オギタカさんのライブは確かに、とても自由な感じです。
音楽の時間の勉強のように、音符や拍子にはずれないようにと頑張る感じではなくて。
そういうものにとらわれない、自分の中にある気持ちや心の動きをそのまま音にのせてお客さんに投げかける。
だから、それを受け止めるお客さんたちも、だんだん自分の中にある想いを手拍子や足拍子で一緒に表現し……時には踊り出す人もいて、にぎやかにみんなで音を共有する。
オギタカさんを中心に、「音」がさざ波となって会場全体にひろがっていく、そんな感じなのです。
そして、この日の音あそびでも……そんな様子があちこちに見られました。
まずは、ジャンベで「リズムでの会話」を楽しみます。
ジャンベというのはアフリカの太鼓。
この楽器の音の出し方、どんなふうに何を表現するのに使われるのか。
そんな簡単な説明のあとでみんなが一斉にたたきます。
最初はしかめっ面で、遠慮がちにたたいていた生徒の顔が……どんどん生き生きとしてくる。
「これでいいのかなぁ?」と困ったような顔が、リズムに集中しているうちに次第に和らいで、ほころんでくる。
二つのリズムの掛け合わせで、相手のリズムに答え、合わせてたたいているうちに、ほおが上気して、眼がキラキラして。
「楽しい!!」という感じが教室に満ちあふれてくる。
硬かった体の動きも、だんだんリズムに乗って軽やかになり。
部屋の中は、飛び跳ねる音でいっぱいになります。
オギタカさんが手に持っているのは……冒頭に書いた「千曲川の川原の石」。
オギタカさんにかかるとこれだって立派な「楽器」になるのです。
両手に持ってたたき合わせると鳴る音。
細かいリズム、ゆったりしたリズム。
こすり合わせてでるかすかな音、投げて床に落ちる音。
みんなそれも「音」………「音楽」なのです。
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たたき方。
頭の上でたたいたり、背中に手を回してたたいたり。
それを見てみんな笑顔で真似をします。
あいさつがわりに隣の人と、軽く合わせて出す「コン」という音も。
みんな人と人とをつなぐ音です。
音の輪が、どんどん広がっていくのです。
木琴のような楽器は、あとでご紹介しますが「バラフォン」です。
まるで瞑想の世界に誘うような音がでます。
たくさん転がっている千曲川の石。
さっきまで、みんなしっかり握りしめて、いろいろな音を奏でていました。
そしてバラフォンと石の間にあるのは竹筒。
これもまた……ほんとにステキな楽器に変わります。
一人一本ずつ竹の筒を持って。
そうして何人かのグループになって、順番にならしていきます。
不思議な音のつながりが輪になって、あちこちのグループから聞こえてきます。
自分の順番をはずさないように。
強く、弱く。
いろんな表情でならします。
途切れることのない音の輪は、まるで音にのせた気持ちのリレーのようです。
みんなでグループの他の人の出す音を聴きながら、自分の音の順番を待ち、そうしてその「和」を崩さないように上手く次につなげる音を出すのです。
たまに失敗して笑い声が起こるのも、ご愛敬。
それもまた、他のグループの竹のメロディーに組み込まれて新しいハーモニーが生まれます。
そうして最初は緊張の中に始まった「音あそび」は、部屋いっぱいの笑顔があふれる中、オギタカさんからのプレゼントで終わるのです。
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オギタカさんのミニライブ。
しっとりした曲、手拍子しながらのノリノリの曲。
音楽を最後にみんなに贈って、この日の「音あそび」のプログラムは終わり。
でも………
プログラムが終わった後も、片付けまでまだまだ音あそびは続くのです。
音と笑顔でつながった生徒さんたちは………
片付けを待つバラフォンのバチを手にとって「これ、鳴らしてみてもいいですか?」と奏で始めました。
自由にいろいろな音を鳴らしながら。
友だちと向かい合って。
「気持ちいい〜〜〜〜。」
「楽しい〜〜〜〜〜。」
この日、シメの笑顔とやさしいバラフォンの音色で音あそびが終了しました。
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オギタカさんの音でつながる活動は、このあともまだまだ続きます。
障害を持つ子供たちとつながったり、いろんなジャンルのピアニストとつながったり、
本当にいろいろな人々と、音でつながっていくのです。
そんなオギタカさんの活動を、この先ももうちょっと追いかけてみようと思います。
<「音あそびの会」HP> http://oto-asobi.main.jp/
<今後の活動予定>
2月28日(日)ピアノ・ア・ラ・モード 〜5人のピアニストによるジャンルMIXライブ〜
会場:佐久市なんだ館(0267-88-5010)
4月24日(土)アースデイin佐久
会場:佐久ミレニアムパーク(佐久平駅蓼科口西)
(文・写真 駒村みどり)
2010.02.11更新

♪パパッパ、パ、パ、パ………(ジャマジャマ)
パパッパ、パ、ジャ、マ………(ジャマジャマジャマジャ)
会場が暗くなったとたんに始まったのは、「お母さんと一緒」でおなじみの「パジャマでおじゃま」のテーマソング。
その音に合わせてステージにでてきたなかがわよしの氏が、突然服を脱ぎ始めた。
………え???
なんだ、なんだ?
シャッターを切る手を思わず止めて、その先何が起こるのかとなかがわ氏の裸体……(結構筋肉質なんですね、写真とっておけば良かったと後悔。)に見入ってしまった。
上着を脱ぎ、おもむろにズボンも脱ぎ始め、ついにパンツだけになったなかがわ氏は、今度は逆に作業着らしき服を着こみ始めた。
そうして、「パ、ジャまたね♪」の音楽の終わりに合わせて(ちょっと間に合わなかったけど)ステージ衣装(?)に着替え終わった。
と、その瞬間に、なかがわ氏の声が静寂を突き破る。
「はだかのぼくを、見て欲しいと思ったから
すべてを脱いで、はだかになりました!」
それは、小さな爆発のように。吹き飛んだ言葉の破片が、体に突き刺さる。
痛い。
だけどそれは、苦痛の痛みではない。
心の奥に縮こまっているかくれんぼしている「自分」の手を引っ張られている痛み。
決して、不快な痛みではない。
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このN-geneで「なかがわよしのの400字」の連載を続けているなかがわよしの氏が主催する、「傘に、ラ」のレポート第2弾です。
第1弾の記事にも書きましたが、「今」という言葉をテーマにして、月に1〜2回企画されるイベントです。
前回のレポートでは、この「傘に、ラ」のゲストとして共に「今」を語る企画に参加させていただいたのですが、今回は完全にイベントを観客の1人として受け止める立場で参戦しました。
第2弾で取材したのは、
2010年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」。
ゲストにお二人の「詩の朗読パフォーマンス」をされている、GOKU氏、猫道氏を迎えて3人による「詩の朗読会」でした。
なかがわ氏と、GOKU氏、猫道氏とのそれぞれの出会いのきっかけになったのが「詩のボクシング」。
詩のボクシング(しのボクシング)は、ボクシングのリングに見立てた舞台の上で二人の朗読者が自作の詩などを朗読し、どちらの表現がより観客の心に届いたか、その表現力を競うイベント。キャッチコピーは「声と言葉のスポーツ」、「声と言葉の格闘技」。一般参加の大会は、これまでに35都道府県で開催されている。全国大会も年に1度開催される。(wikipediaより)
言葉や声を、生きた力を持つものとし、それを各人の表現によって人に伝える力を競うもの。
最初、これを聞いたときに、「ボクシング」と言うイメージと「詩」というイメージがなかなか結びつきませんでした。
私のイメージで行くと「詩」というのは「詩作にふける文学少女」が秋のセンチメンタルな枯れ葉舞う風景の中で静かに穏やかに読むもの………だったからです。
ところが。
そんなイメージでいたわたしは、のっけからカウンターパンチをくらってしまったわけです。
言葉が、こんな「力」を持って迫ってくるなんて、思いもしていなかったんです。
詩が、こんなに熱いものだなんて、イメージしたこともなかったんです。
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突然、ステージのなかがわ氏は脇に去ったかと思うと「卓上ガスコンロ」を手に再登場。
そして、おもむろに着火……が、なぜか火がつかない。
「着かない!!」
「こんな時に限って、着かない!!」
そういうアクシデントもまた、なかがわ氏の即興詩に読み込まれる題材になる。
「過去」は要らない。時と共に過ぎ去ってしまう「過去」は要らない。
そんなものは、燃やしてしまえ。
(そのためのガスコンロだったけど……火が着かなかった。)
「未来」を見るのは遠すぎる。
だから。だから、「今」なんだ。

彼の中に、脈々と流れ続けるテーマが強烈にうたいあげられる。
「今」という言葉が、彼の中で熟成されて、そうして熱い熱を帯びながら会場に放たれる。
やがて、そのなかがわ氏から発せられた「熱」は、さらに溶岩の固まりとなって次のGOKU氏に受け継がれた。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
GOKU氏。
東信在住の自作詩の詩人。
彼となかがわ氏の出会いは、「オープンマイク」というイベントによるものでした。
OPEN MIC(オープンマイク)と はアメリカやイギリスで一般的な、当日飛び入り参加形式の自由なパフォーマンスステージです。その名の通り、誰にでもオープンなマイクということで、参加自由のイベントです。弾き語り、バンド、詩、マジック、ラップ、コント、ただマイクの前でしゃべるだけ、などどんなパフォーマンスでもOKというものです。
東京などでは結構行われている「オープンマイク」。その長野版を自主的に行っているのがGOKU氏です。(いずれ、このN-gene記事としても取り扱いたいと思っています。)その、彼の主催するオープンマイクに、なかがわ氏が参加したことで二人のつながりが始まりました。

GOKU氏は、先に書いた詩のボクシングの2005年の全国大会では準優勝したという実力者でもあります。
なかがわ氏も、GOKU氏も、お互いに「友だちじゃない」といいます。
多分……友だちというだけじゃもったいない、表現における「ライバル」とか「敵」とかいう類の高め合う仲なのでしょう。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
GOKU氏は自作の詩人。
自らが紡ぎ出した言葉を乗せた詩を、体中使ってステージいっぱいに叫ぶかと思うと次の瞬間に泣き出しそうにささやく。
その緩急ある言葉の放ち方によって、思いが乗った重たい言葉が聞くものの胸にどかんとぶつかってくる。
犬の詩を読んだ。
野良犬の死を詠み込んだ詩を読んだ。
………………………・
〜「ノラ犬のカラダ」より一部抜粋〜
僕の記憶から、ノラ犬の死体は寂しそうに立ち去り、
僕の記憶には、畑を斜めに歩くノラ犬が棲みつきました。
「土に還りたい」
「空を飛びたい」
「静かに暮らしたい」
それら全ては僕が求めているものなのに
それらをひとつも求めていないであろうノラ犬は
その全てを叶えて
僕の記憶に棲みつきました。
………………………・
野良犬は、今、死によって放置され鎖の束縛から自由になった。
見ている自分は、その自由が欲しいのに、それが手元になく。
野良犬は、その自由を欲してはいなかったかもしれないのに、自由の元にある。
今、欲しいものは手には入らず、必要としていない者にそれが与えられる………。
ずきっと来る。

自作詩人のGOKU氏はまた、最近自費出版で詩集を出した。
この詩集にあるのは、すべて彼の詩ではない。
詩人である自分が「読みたい」と思った詩を集めて綴った小さな詩集。
そのひとつを、今度は切々と読み上げる。
入り口においてあったその詩集は、あっという間に多くの人の手元に旅立っていった。
なかがわ氏に触発されたのか。
GOKU氏も脱ぎ始める。
お色直し後のGOKU氏は、おもむろにスケッチブックを取り出して観客の前に拡げる。「宇宙ガール」というタイトルの詩を朗々と読み、次第に観客を巻き込む。
「ありんこの声で!」「ロケットのスピードで!」「地球の声で!」
彼の指示にしたがって、観客もいろいろな声をイメージしながら共に言葉を発する。
やがて高まった熱が、GOKU氏の中で爆発。
ステージ上を「小宇宙」という言葉を発しながら飛び跳ねる。
飛び散る汗が見えるほどの爆発ぶりだ。

「なかがわさんのパンツ一丁にはかなわないけど。」
そういいながら、3度目のお色直し。
そして、持ち時間の30分の間……
いったいいくつの言葉を発したのだろう?
そのきらめきの余韻をステージにまき散らして、GOKU氏のステージ終了。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
猫道氏。
彼は、「猫道一家」の座頭なのだそうです。
今までは、この「猫道一家」というクルーでお芝居を発表していたそうですが、2008年にお芝居をやめてポエトリーリーディングに転向し、2009年より自ら主催するスポークンワードのイベントを渋谷 道玄坂のBAR SAZANAMIで毎月開催しているそうです。
先にも書いたように、「詩のボクシング」に参戦、そこでなかがわ氏と出会い、どうやらお互いにいいライバル、刺激を与え合う関係がそこで生まれたようです。
かつて、芝居の音響・演出・脚本などを手がけていただけあって、彼のステージの上にはいろいろな道具も並んでいました。
何が出てくるのか???それを見ているだけで期待感が高まりました。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
登場と共に、そこはたちまち、歌舞伎の舞台になった。
大声で名乗りをあげ、見得を切る。
……かと思うと、次の瞬間にはいつの間にか「ラップ」になって言葉がぽんぽんとポップコーンのように飛び跳ねる。
ぐいぐいと、観客をステージの上の「言葉」に引き寄せていく。
その瞬間に、舞台はもう猫道氏の世界。
飛び跳ねる言葉。
飛び跳ねる音。
飛び跳ねる、猫道氏。
それをとらえようと必死にステージに吸い寄せられる観客たち。
その緊張感が高まる中で、次にホールの空間に投げつけられた言葉にはっとする。
………………………・
「素顔」より 〜一部抜粋〜
一皮剥けたら元には戻せないのは、
あの塩釜の海岸で散々日に焼けた20年前のナツヤスミに戻れないのと同じことで、
変わらないのは蚊取り線香の匂いばかりです。
(中略)
人間椅子になって隠れたりしたい。
タイガーマスクになって悪者をやっつけたりしたい。
途中で我慢できなくなって、タマネギみたく皮を剥いて、
涙目の素顔をさらしたい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
みんな涙目になって皮を剥いたらいい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
「髪の毛切った?」って言われるのは
みんなうれしいと思うから。
………………………・
一皮むけたら、戻れない。
あの夏に戻れないのと同じように。

「素顔」というタイトルのこの詩が、なかがわ氏のかかげるテーマである「今」にだぶった。
そして、それは、今の自分の想いにもどかんと乗っかってきて……胸に堪えた。
胸の奥にたまっていた何かが、堰を切ってあふれ出そうになってあわててこらえた。
緩急織り交ぜたステージ上で。
期待通りに、猫道氏もお色直し。
猫道氏3態。

3枚目、一番右の写真で彼が手にしているのは。
「ネオンホール特製マイク」なんだそうな。
この特製マイクを握って、彼はこうつぶやいた。
「溶け始める時間を、たべる。
おいしいは、のこる。」
3人の熱いステージは、こうして幕を閉じた。
会場のネオンホールの空間に、その空気の中に、いつまでもその熱が漂って。
しばらくの間、冷めることはなかった。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
なかがわ氏の持っているテーマは、「今」なのだけれども。
その「今」の中にはまた、様々な人間模様が織りなされている。
この3人の「今」の中には、「今」に至るまでの「過去」があり、その「過去」を踏み台にした「今」があり、その「今」を積み重ねていくのが「未来」。
この3人の織り交ぜた「今」は、彼らがステージから熱と共に撃ちまくった言葉のマシンガンの目にも止まらぬ弾となって、それに射抜かれた人々の中に何かを残す。
そしてその人たちの中にある「過去」をほじくり返しながらそれぞれの「今」を実感させ、そして「未来」を思うきっかけをくれる。
言葉の持つ力は、なんてすごいのだろう。
そして、それを放つ人の力が加わると、何という破壊力を持つのだろう。
言葉が発せられるのはほんの一瞬なのに、命を得た言葉が、どんな力を持って人に迫るのか。
この2時間強の時間の間に、それを目の前にたたきつけられた気分になった。

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ちなみに、ネオンホールの階段ギャラリーでは、28日までなかがわ氏の展示も行われています。↓

なかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、このあとも続きます。
10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~たかが芝居だ!~」
現代口語劇「餃子の なかみ」赤尾英二、司宏美、田中けいこ
アングラ劇「たかが芝居だ。」(脚本・演出・出演/なかがわよしの)、
10年3月7日(日)「傘に、ラ。 vol.9~たっちゃんと ゆかいな なかまたち~」
客人:田沢明善
10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.10~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」
ゲストライブ
オサカミツオ、SLOWLIE、なかがわよしの、bubblesweet ほか(50音順)
10年3月21日(日)「傘に、ラ。 vol.11 ~つぶやいて、なんになる~」
@twitter
10年7月3日(土)「傘に、ラ。~今に生まれて今に死ぬ~」
出演:outside yoshino タテタカコ
(写真、文:駒村みどり)
2010.02.05更新
毎年、冷たい風が吹き冬の気配を感じるようになるとうれしい胸騒ぎがはじまります。
自分にとってこの季節の到来は大好きな祭りシーズンのはじまり。その祭りは、愛知県奥三河地方に伝わる「花祭(はなまつり)」という素朴な芸能です。

奥三河は長野県と静岡県の県境地帯にあり、花祭は諏訪湖を源流とする天竜川水系の山奥の村々に伝わる湯立神楽のひとつ。長野県南部、遠山郷の霜月祭と同系統に分類される祭りで雰囲気も似ています。
三河・遠州・信州の県境地帯は、ひとつの県に括っていたら見えない共通の面白い文化があります。だからここ、N-geneでも紹介させていただきます。
自分は花祭ならではの独特の面白さがとても好きですが、花祭って何なのか、説明するのが苦手な自分ですし花祭は難しい話よりも、ただ楽しい花祭でいいと思っています。でも、いろいろな説や花祭の写真、レポートを読むのも好きです。
花祭の詳しい内容や解説、画像や動画は、ネット上に多くの面白いサイトがありますので、興味のある方は検索してそちらを見て頂けたらと思います。
*** * ***
愛知県境の阿南町で生まれ育った自分は、小さなころ祖母に連れられて隣村の豊根村(愛知県北設楽郡)にある親戚の家によく行きました。橋の無い川を歩いて渡って一人暮らしのおじいさんの家までいったり、地元の子供と神社で遊んだり・・・。そんな幼かった頃の記憶のためか、奥三河でおこなわれる花祭が自分には良く馴染むのかもしれません。
それでも花祭に通い始めたのは10年ほど前からです。それまでは、子供のころに父親からよく聞いた話・・・父が子供のころ、豊根村の親戚の家が花祭の花宿(花祭の場を「花宿」と言います。現在は民家での花祭はおこなわれていませんが)になったとき、愛知県境の新野峠を徒歩で越えて花祭を見に行った話で祭りのことを知ってはいましたが、さほど興味を持たないで一度も見に行くこともなく、父から聞いた花祭の話は記憶の片隅に置き去りにして時は過ぎていきました。
そんな自分が今のように花祭が好きになったのは、今から10年以上前、世の中にインターネットが普及し始めた頃です。たまたま地元の新野の雪祭りを紹介するホームページを作ってみたことがきっかけで、花祭りと思わぬところで遭遇することになりました。
新野の雪祭りには「鬼」が登場します。その鬼の演目は、鬼が禰宜との問答で敗北し退散するという内容です。その場面から、出雲神話の国譲りの物語などで語り継がれる、「ヤマト王権に敗退した日本の原住民=まつろわぬもの=為政者に従わない者=鬼」といわれる説に、雪祭りの鬼も当てはまるのではないだろうかと思ったのです。
いろいろ調べていたところ、岩手県に「鬼の館」という鬼に関する資料を集めた博物館があることを知りました。現地に行き、その場所に展示されていた奥三河の花祭の映像を見て、映し出された鬼と人が一緒になって歌い舞い踊る光景にすごく驚きました。
新野の雪祭りとも違う感じ・・・鬼と見物者の一体感や独特で耳に残る掛け声に、ああ、いったいこの祭りは何なのだろう、これが今の日本で本当におこなわれているのか、どうしても見に行きたい・・・と。
その年の秋、さっそく花祭見物に出かけました。笛や太鼓の音、舞いの所作、躍動する鬼、集まる人たちのエネルギー、焚き火の暖かさ、その場の何もかもが想像以上に衝撃的な体験でした。
そのようなわけで、自分の住む阿南町の隣りの村々でおこなわれる祭りなのに、たどり着くのにずいぶんと遠回りをしましたが、以後は毎年、花祭に出かけるようになったのです。
前置きが長くなりましたが、花祭の魅力を僕なりにほんのちょっとだけ紹介してみたいと思います。
***花祭の季節*去年の記憶***
『東栄町小林の花祭』
かねてより、花祭に出掛けるたびに立ち寄る東栄町(豊根村の隣町)のとある食事処のご主人から、うちの長男を小林区の花祭に参加させてみないかとお誘いをいただいており、2009年、同地区の祭りに4歳の長男が参加することになりました。
長男は1歳の頃から幾度も花祭に連れて行かれているため、祭りの舞いを真似して遊ぶのも大好きになり、祭りに出られることをたいへん喜びましたし、それは自分にとっても夢のような話しでした。
いままでの祭り見物と違い、祭りに舞い手として参加させてもらえることは花祭が好きな者にとって、この上ない嬉しさだと思います。
『小林地区 舞い習い』
2009年11月、小林の花祭りの1週間前の夜6時過ぎより4日間の舞い習い(舞いの練習)があり、息子も参加しました。
自分にとって、自分の子供が花祭に舞子として参加するのは念願でした。憧れの花祭の舞い習いであり地元の方との触れ合いも楽しくて、自宅から東栄町まで通う1時間余の道のりもまったく苦になりませんでした。
なんといっても、地区の方々がまったくの余所者の僕や子供を快く受け入れてくれたことに大変感謝しています。花祭の舞い手は、以前は限られた人のみが可能であり、舞いを舞えることがとても誇りだったそうですが、今では地区の人口も激減して舞い手が不足しているのが現状で、祭りの存続も危ぶまれているため地区以外の人の参加も許されるようになってきています。
このような貴重な経験を親子で楽しめることが嬉しかったです。誘って頂いた食事処のご主人に感謝しています。僕のわがままな理由でも、仕事を早退して舞い習いに通わせてくれた理解ある職場にも感謝。
***
11月14日。
小林の花祭の日。
大切な忘れることのない思い出の1日になりました。

長男の一瞬の表情・・・こいつは何百歳だ?と思うほど、普段とは別人のような子供とは思えない顔つきに見えました。
「花祭りのかみさまは、祭りの前からうちに来ていたんだに」と言った息子の言葉が印象的です。
この日の出来事は、僕のブログやNの南信州コミュニティ内のトピックに記憶を残しています。
2009年12月のブログ
N-SNS コミュニティ「南信州」トピック「南信州の祭」
また11月14日当日の様子は、電力会社の広報誌の取材でこの祭りを訪れたコピーライターの近藤マリコさんのブログに、とても暖かい言葉で綴られていますので、ぜひご一読されることをおすすめします。
初めて花祭を体験した近藤さんの視点、面白いですよ
奥三河・東栄町の花祭り Vol.1
奥三河・東栄町の花祭り Vol.2
再び・・・花祭りで得たもの
*** * ***

『御園地区の花祭』
11月15日の朝。
14日から徹夜でおこなわれている御園地区の花祭です。僕と長男は小林の花祭が終わってからの深夜、御園まで行きました。
天井に見える紙かざりは、神秘的な「びゃっけ」、花祭を引き立てる「湯蓋」や「ざぜち」です。
湯の入った釜がみえます。これが湯立神楽の最たる特徴です。
朝日を浴びながら舞う男たちが、かっこいい。
『月地区の花祭』
1歳の子供が目の前で舞われている青年の舞いを真似ています。
このように小さな頃から花祭を見ることは、幼い子供にとっても印象的で、しっかり記憶に刻まれるのかもしれません。
ちなみにこの子供、うちの次男です。長男も1歳の頃から此処の花祭り見物を経験しています。
花祭好きの地元の小さな子どもたちは、いろいろな舞いを真似て祭りの場を和ませています。
きっと、この子供たちも花祭の継承者となるのでしょう。そう望みます。

『中設楽地区の花祭』
舞子と一緒に舞う見物人を「せいと衆」といいます。
せいと衆は「テーホヘ、テホヘ」などの独特の掛け声で囃し、舞い手に「元気がないぞ!もっと大きく舞え!」などと悪態をついて励まし、祭りの場を盛り上げます。
舞い手と観客の境界がない一体感。これが花祭の特長で、そこにいちばんの面白さがあると思います。

『花祭のうまいもの』
お金などの奉納「花見舞」をすると、神社のお札と一緒に記念の湯呑や手ぬぐいなどを頂けます。また、地区によってはお寿司や接待所で地元のおいしい料理もいただけます。この中設楽の煮物や赤だしの味噌汁、大盛りご飯にお漬物、うまかったです。
花祭ではお酒もたくさんいただけます。楽しくて、ついつい・・・飲みすぎ注意です。

『中在家地区の花祭』
これが鬼です。
どこの花祭にも、山見鬼、榊鬼、朝鬼が現れます。それにお供の鬼たちも出てきます。
花祭の鬼は斧を持ち、実にパワフルかつリズミカルに舞います。
鬼は節分では悪役で排除される対象ですが、この祭りでは大人気です。テレビのヒーロー物に負けないほど、地元の子供たちも大好きです。
花祭の鬼のように、どこからともなく現れ、舞を舞って去っていくモノたちの祭りは、沖縄から東北の辺境にかけて帯状に点在しているそうです。
そんな鬼たちが、どこから来て、どこへ行くのか・・・いったい何者なのか気になりませんか。

という感じで、ちょっと花祭を紹介してみましたが、実のところ自分の文章の力不足もありますが、言葉や写真でこの祭りの魅力を皆さんの心に響くよう伝えるのは、今までの経験からむずかしいと感じています。世の中には刺激的なことがあふれていて、こんな田舎の素朴な祭りに目を向けることはあまり考えられないでしょう。僕自身、花祭地帯とも呼ばれる地域にずっと住みながらも、花祭の楽しさに気付いたのはたったの10年ほど前なのですから。なので、この祭りの魅力をどう表現したら伝えられるのか、今でも模索しています。
花祭のリズムは時に気だるく、深夜に同じような舞いが繰り返されるとだいたい眠くなります。そんな時はもう祭りはどうでもいいような気分になるものです。ある意味、試練を味わうかもしれませんが、眠くて寒くて、ウトウトと朦朧としていても確かに祭は進んでいることが感じ取れるでしょう。そんな夢うつつのちょっと不思議な感覚が自分の記憶に刻み込まれると、いつの日か祭り見物で辛かったことを思い出したとき、あれも祭りの醍醐味だと気が付くでしょう。そして、もしかしたら、小さなこどものような気持で祭りと向き合えば、学術的なことも何もこだわりなく、大事な何か・・・おそらく人間の記憶の深いところに配置された原始的で懐かしい、自然と一体化するような感覚を感じ取れるような気がします。・・・なんとなく、そう思います。
今シーズンの花祭は残すところひとつ。東栄町布川地区の花祭です。
毎年3月の第一土曜日の午後より日曜日の朝までおこなわれます。今年は3月6日から7日です。
そうそう、花祭にとり憑かれたように通う人たちを、花好きとか花狂いといいます。また、そんな花好きや地元の人たちはこの祭りを単に「花」とも呼びます。
「花」・・・はな・・・、なんだか懐かしくていい響きだなぁといつも思います。
とにかく、やっぱり、行って、見て、参加して、花祭の楽しさを体験して、やっと魅力が分かってくると思いますので、ぜひ花祭に行ってみてください。
できれば、僕みたいなお父さんたちには、ぜひ、お子さんを連れて花を見に行くことをおすすめします。花祭の夜は、子供が眠くて眠くて、眠ってしまうまで、それが真夜中でもずっと一緒に見させてあげてください。きっと、親子ともども、閉ざしていた心の扉が開き・・・本来の大切な感覚が冴えてくるとおもいます。
自分にとって、花祭の場に行くことは、花祭のシーズンにただ近隣の村で一夜を過ごすという数カ月の出来事ですが、それでも楽しい旅なのです。
まだまだ僕と子供の花祭巡りの旅は続きます。
花祭は出会いや再会も大きな楽しみ。皆さんとも、どこかの花でお会い出来たら嬉しいです。
(写真、文:佐藤裕)
2010.02.05更新

長野県は「日本のスイス」なんて言われるほど精密機械産業が
盛んなわけですが、その中でも大きな存在なのが諏訪のエプソン。
現在はプリンター等で知られる同社は、かつて諏訪精工舎
という名前で、機械式の腕時計を盛んに作っていたんですね。
機械式の腕時計というと、今も昔もスイス製が有名です。
戦前〜戦後すぐまでは、多くの国でスイス製の時計を勝手にコピーしたり、
手本にしてアレンジした製品なんか作って、でも品質は劣るもの
だから安く売ったりしていた。
そんな状況の中でスタートした戦後の日本の時計産業は、
スイスのメーカーに追いつき追い越すことを目標に頑張ったわけです。
で、はっきり追い越したかどうかはわからないけど、
機械式腕時計の精度において追いつき、追い上げるところまでは行ったんです。
それと同時にクォーツ式という革新的なシステムを製品としてまとめて
機械式の腕時計自体を過去のモノにしてしまった(1969年のことです)ため、
「日本の時計メーカーはクォーツ腕時計でスイス勢を追い抜いてトップに立った」
と書かれることが多いです。けれど、機械式の腕時計でもかなりの事はやっていた。
1960年代後半には日本もスイスと並ぶくらいの技術・生産力があったんです。
その後スイスの時計産業は日本製クォーツウォッチによって
壊滅的な打撃を受け、80年代にスウォッチがヒットするまで低迷を続けるわけです。
しかしこの後機械式時計は見直され、特に90年代以降は状況が一変…
と、腕時計の、戦後史を語りすぎても仕方ないのでここらへんで割愛しましょう。
長い前置きになりました。要するに
「諏訪湖畔は世界一の機械式腕時計の生産地であった。」
って事が言いたいわけです。
そして、
長野を愛する長野県人といたしましては、そういった諏訪製の高性能な
機械時計に注目してみるのはどうだろうか。
…というか、もうすでに私は勝手に注目・実用しておりまして、
それをここで紹介していきたい! と思うのです。
あ、その前にまた細かい事を一つ。
1970年代までのセイコーは、諏訪精工舎と東京・亀戸の第二精工舎の
二社で違うタイプの腕時計の製造を行っていました。なので、
古いセイコー製の機械時計(手巻き、自動巻など)の全てが
諏訪湖畔で作られたわけではありません。
で、その見分け方なのですが、全ての年代には通用しませんが
ごく簡単な識別法があります。上の時計の画像から切り出した
この部分↓を見て下さい。

この「HI-BEAT」の下にある「♯」に少し似たマーク。
これが文字盤か裏蓋に入っている時計は、諏訪製です。
(ちなみに手裏剣みたいなマークだと亀戸製になります。)
どこにも「諏訪」とか「SUWA」とは刻印されてませんが、
このマークがある場合は間違いなく諏訪製なので、覚えておいて下さい。
何か今回は前説みたいな話になってしまいました。
長くなったのでこの辺で終わりにして
時計の紹介は次の機会(っていつなんだ?)にさせていただきます。
ちなみに本文の上にある時計は
「キングセイコー・クロノメーター 5626-7040」で、
1971年、諏訪精工舎製造です。
シンプルで美しいでしょう?
善光寺の近くの某時計店にて1970年頃に買われていき、
いろいろあって自分の手元に来ました。
つい先日同じ時計店にて分解清掃済みです。
まさにジャパニーズスタンダードといえるデザイン。
40年近く前の時計とは思えないほどの完成度です。
(写真・文:清水隆史)
※現在のセイコーエプソンでは、諏訪湖畔ではなく塩尻に
「マイクロアーティスト工房」という部署があり、そこで
複雑で高級な芸術品とも言える腕時計制作を行っています。
そちらのお話しはまた後日…!
(2010.2改訂)
2010.01.23更新

小布施の町では、毎年町を挙げて行われる祭りがあります。
それが「安市」です。
12月頃から小布施の町中を通りかかると、あちこちで赤いポスターが目につきはじめました。
「先生、14日と15日は、学校お休みだから。」
「え?何故?」
「だって、安市だもの。」
去年、仕事で家庭教師をしていた小学生の言葉にちょっと驚いた記憶がよみがえりました。

学校が休みになるのかぁ……。町のお祭りで。
そういう話は、あちこちの学校を知っているけれど最近はあまり聞かなくなりました。
だけど、小布施町ではちゃんと休みになるのです。
1月の14日、15日。
成人式。敬老の日、体育の日………。
「ハッピーマンデー」などという言葉が生まれるように、国の祝祭日が「第◯月曜日」に変更されることが多くなってから、何となくもともとの祝祭日の意味も薄れてしまったような気分。
もともとの意味のある日からかけ離れたそういう休みの取り方になって、かつては「小正月」に当たるこの日に行われていたどんど焼きも今や別の日になってしまいました。
そんな「祭」や「季節の行事」への意識が薄れると共に、町のお祭りにあわせて「お休み」になる学校もなくなったのに。
お祭りで、学校が休みになる。
お祭りのワクワクと、それから学校のお休みの嬉しさで「地域の祭」は子供たちにとって特別な日でした。そういう意識も最近ではなくなってて、なんだかさびしいなぁ、と思っていたのだけれど。
ここ、小布施では残っているんだなぁ。

小布施町。
平日の昼間でも、訪れる人が絶えることのない北信の小さな観光地。
この町は、「古いもの」を大切にし、その息づかいを生かした町作りがなされています。
「小布施方式」といわれたその町作りの手法は、遠くから視察に来る人々もいるほどなのです。
古い建物や蔵、それから町の財産である歴史や特産の栗を生かした町並みが、来る人の心と目を休めるのです。
その小布施町がさらに活気にあふれるのがこの「安市」の日。
あちこちの文献を調べるとその起こりは江戸時代で、次のような由来があるようです。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
北国街道と谷街道の分岐にある小布施では、江戸時代初期の寛永6年(1625)から月に6回(三と八のつく日が市日)市を開く六斎(ろくさい)市が立ち、日常欠かせない穀物や実綿・太物・荒物・金具・塩・紙類・茶・鎌・肴(さかな)類などが取り引きされていた。また北信濃の米麦相場を定める場ともなっていた。文化年代 (1804~18)頃の地図に小布施は「市」と記されるほど、北信濃の中心的な市だった。
(ちなみに中野市では 1・4・7・11・14・17・21・24・27日に市が開かれたことから「九斎市」、善光寺や松代では「十二斎市」の名称で同様の市が開かれていた。)

しかし、明治時代になってからは、北信濃における物資の集散地として賑わった小布施も、交通上の理由などからその座を善光寺を中心とする長野に渡すこととなり、「六斎市」は次第に衰退。これに危機感を感じた伊勢町・中町・上町・横町の町組商人は六斎市の伝統を引き継ぎ、 毎年1月14 日・15 日の安市を起こし定着させてきた。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
なるほど。
小布施の町の歴史は、町に住む人たちの創り上げた歴史。
それはこの安市にも現れているんですねぇ。
安市の会場は、小布施町の中心にある「皇大神社」境内と、そこに続く参道です。
天照大御神を祀った「皇大神社」へは伊勢神宮の御師が出張し、ここを中心に伊勢信仰が広まりました。
参道には、両側にたくさんの屋台が建ちます。商売繁盛の祈願のだるまや「福飴」といわれる飴。色とりどりの縁起物が所狭しと並びます。

そして、その中心の「皇大神社」で行われるのは大正時代からはじまったとされる「火渡り神事」。安市行事最大の呼び物とされています。そのほか、薪積みの儀式・だるまのお焚き上げなども行われます。
火渡り神事の時間が近づいたので、屋台は気になるけど境内に急ぎました。
ちょうど神事が始まったところでした。

白い装束に赤いチョッキ(?)をまとった行者さんたちが、中央に積み上げられた薪に火をつけ、その周りを祈祷しながらぐるぐると回ります。
その火の勢いは、かなりのもの。
周りを回る行者さんたちはしかし、熱さをみじんも感じさせず、祈祷の言葉をつぶやきながら厳しい表情で回り続けます。そして、その周りを4方向、4人の行者さんが固めてこちらも印を結びながら祈祷し、それから一番の修験者が、東西南北、それぞれの位置に移動してそこでまた、印を結んで祈祷します。
この祈祷は、何の意味かわからなかったのですが、どうやら厄除けとか病気・悪魔払い、豊作などを祈るもののようです。

中央の薪がほとんど燃えて炭になり始めた頃、長い太い竹の棒で二人の行者さんが中央に「火渡り」用の道を作り始めました。
そして、火渡りの儀式の始まりです。
まずは、修験者のリーダーの人がたびとわらじを脱いで、雪の上からまだ熱い炭の上を渡ります。そして、祭壇に祈祷をすると他の行者さんたちも渡りはじめました。
行者さんたちがみなさん渡ったあとには、何と、町長さんがよばれます。
靴を脱いで裸足になった町長さんも、それからその後、町をリードする人たち(消防署長さんとか、警察署長さんとか……)も次々と渡ります。
さらに、一般の人たちの中からも希望の人が渡りました。
みんな渡って、祭壇に一礼して。

……熱くないのかなぁ……と思ってみていたら、最後の男性が渡り終わったあとで、近くの知人と思われる人に「熱かったぞぉ。」と言っていたので納得。
だって、みんな表情ひとつ変えずに渡っていくんですもの。熱くないのかと思った。
そうして、小布施町の発展を祈る火渡りの神事は終了。
すべて終わったあと、人々が立ち去る中、最後に行者さんたちが残って祭壇にみなで祈祷を捧げていた姿が印象的でした。

今年一年、いい年になるといいなぁ。
凛とした行者さんたちの祈祷の姿に、そんな想いを持ちました。
(余談ですが。
この安市の資料が欲しくて神社で聞いたら「商工会議所にあるんじゃない?」といわれ、商工会議所にいってみたら「そんなのはないから、ネットで調べて」と言われて……。
実は、この取材に当たってネットで事前に調べたのですが、安市や火渡りの神事、小布施の皇大神社についての資料がほとんどなかったので、地元で手に入れられないかと聞いてみたのですが……。
せっかくのにぎやかなお祭り、由来とかいわれなどを知る場所や資料があったらいいのになぁ……と、ちょっと残念に思いました。)
さて。
「火渡りの神事」が終わると、とたんに境内も屋台も人の姿が減りました。
わたしは毎年、この安市で買い物するのが楽しみなので、あわててお店巡り。
一番多いのはだるまを売るお店。
この近くのだるま作りの職人さんたちが、自作のだるまを持ち寄って売っています。
祭も終わりに近いので、「まけるよ〜、みてって!!」とかける声も一段と大きくなっています。
しばし、参道の賑わいをお楽しみください。

みな、それぞれに味のあるだるまの顔を見ているのは、それだけでも楽しいです。

最近は、赤いだるまだけじゃなく、黒とか黄色とか金とかむらさきとか……。
いろいろな「御利益」によって色分けしているお店もあります。


神社では、まゆだまを売っていました。


だるまと一緒に目立つのが、「福飴」を売るお店。
色とりどりできれいな飴が、たくさんの縁起物と並んでいるお店で「写真を撮ってもいいですか?」と撮らせてもらったのですが……。

「どうですか?今年の売れ行きは?」とそのお店の人にお聞きしたら。
「いや、ダメだねぇ、この景気でほとんど売れないよ。」
他のだるまや縁起物のお店の人も、みんなそんな答えで。
色とりどり、華やかなお店にも、景気の悪さが影響しているんだなぁ……。
でも、お店のみなさんは「まぁ、今年はそんなもんさ。」とみなさん元気でした。
そうだね。今年は、少しは元気な年になるといいな。
行者さんたちも真剣に祈祷してくれたんだし………。
毎年立ち寄るお店のいつも元気なおばちゃんから「張り子のトラ」を購入して、おまけでカバンにつけてもらったひょうたんの鈴がちりちりと鳴る音を聴きながら、雪の舞う小布施をあとにしました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
みなさん、あけましておめでとうございます。
小布施の町が、こうして元気に祭を続けていくように、みなさんの今年も元気で幸せな一年になるように、張り子のトラくんと一緒に祈念したいとおもいます。
(写真、文:駒村みどり)
2009.12.31更新

2009年最後の "N News&Report" は、みたび権堂です。
2009年秋、Nは長野市善光寺門前の商店街・権堂を舞台にしたふたつのイベントを開催しました。
「権堂劇場〜国定忠治まつり〜」
「〜権堂映画館コンサート〜ハンバートハンバート小夜曲(セレナーデ)」
権堂商店街を舞台にした路地めぐりや青空マーケットを背景に、権堂の歴史的なランドマークである秋葉神社と長野ロキシーに場所を借りての野外劇とコンサート。それぞれのイベントの様子はこちらのレポートをご覧下さい。
「権堂村に、咲き乱れるは笠の花。」
「[N-ex8] 〜権堂 映画館コンサート〜ハンバートハンバート小夜曲」
「[N-ex8] 〜権堂 映画館コンサート〜ロキシー広場前マーケット編」
神仏混淆の時代から江戸時代を経て現代へ、信仰の回廊と世間が交わる場所として歴史を重ねて来た花街・権堂。このイベントを契機にあらためて歩いてみて感じた独特なこの街のいろいろを拾い集めて、このレポート「どうなんだ権堂」シリーズでお伝えしています。
「どうなんだ権堂!? ① 2009秋」
「どうなんだ権堂!? ② 2009秋」
もっと早くその③を記事にしようと思っていたのですが、あっというまに年の瀬、とうとう大晦日になってしまいました。またいくつか、感じたことをお伝えしようと思います。
◆◇◆
権堂のアーケード商店街。

ご多分に漏れずシャッター街です。日本全国どの地方都市へ行っても見られる光景ですが、権堂の場合は普通の商店が空き店舗になっただけではなく、特に2008年の秋に条例が改正されて「客引き・客待ち規制」が強化されてから風俗店も軒並み退散。風俗店およびそれに類する店舗、周辺の店舗の8割近くが権堂から姿を消したという話を聞きます。

長野市の街並は全体的に、効率重視でごちゃごちゃと建造物を累積させたようなタイプの街です。そこに住む人や歩く人のことをあまり考えずにコンクリートを流し込んで敷きつめたような街です。そこにある地形も風土も歴史もお構いなしに造られるので、感性に響くところのない街になります。
権堂もそんな長野の街の一部、ごちゃごちゃした街なのですが、ちょっと違うのは、その場に溜まっている空気がなんだか独特なのです。ものすごく個人的な話ですが、だから権堂、なんだか気になるのですね。
さて、効率重視でできあがった街によく見られる状態があります。建てる人が自分の敷地のことしか考えていないために景観が崩れてしまい、街の魅力が削がれてしまうのです。
秋葉神社の前の広場。

アーケードの支柱や電柱がてんでばらばらに立っているために、秋葉神社の鳥居や石灯籠が紛れてしまい、神社の存在感がなくなっています。アーケードはアーケードのことだけを、電柱は電力会社のプランだけを考えて立てられているのです。
秋葉神社といったら権堂の守り神。裏手には包丁の神様が祀られた四條霊社、国定忠治のお墓もあります。そんな神社への敬愛の念もなく、そこにある歴史や街の物語のことも考えずにアーケードを造ったり、舗道のタイルを敷いたり、電柱を立てたり、いろいろが造られているのです。
隣りにあるイトーヨーカドーの広場も、もう少し秋葉神社の境内との視覚的な関連性を考えてデザインされていたら、もっと美的で奥行きのある空間ができていたに違いありません。
別にお金をかけて大規模にきれいに整えるばかりが景観を整えることではありません。造るときに、その場所の歴史のことや、人々が集う空間であることや、そこにある風景全体のことを少し考えれば大丈夫なのです。
これは、弁財天の境内です。

お地蔵さんや石碑の背後ぎりぎりまでビルの外壁が迫っています。かなり美しくありません。とても窮屈そうで、そこに弁財天があるという精神性がビルの壁に圧し潰されてしまっています。弁財天のこと、そこに集まる人々のことを考えたら、たぶんこんなことしませんよね。
自分の敷地なんだから別にぎりぎりまでビルを建てたって誰に文句を言われる筋合いもありません。けれど、そのために、この街の大切な拠り所だった弁財天には、もう人が集える雰囲気はありません。
たとえば、どこへ行っても街並が美しいヨーロッパでは、そこに建物を建てるということは社会的な責任が生じることと考えられています。なので、自分の敷地のことだけではなく、隣りのこと、まわりの風景、街全体のことを視野に入れて自分の建物を建てるのです。お金はあるけどセンスには自信ない、という人は、その責任を全うするため設計士と別に景観のデザイナーを雇うこともあるそうです。日本のように「俺が金を出すんだから何やったっていいだろ」なんていう人は社会的な責任を果たせない人なので、建物を建ててはいけないのです。
近年の東京では、一街区をまるごと作りかえてしまう大規模な開発が増えています。その場合、街の神社やお寺を開発区域の中に含んでしまうことがあるのですが、開発を手掛けている大手の建築会社では、かつて街の拠り所であった寺社の存在を開発プランの重要な要素と認識して、高層ビルの谷間に埋もれてしまわないように配慮しています。実際にどういうことになるのかは完成してみないとわかりませんが、超高層の居住棟と低層のオフィス棟の間、街の中心に空間を広く取った鎮守の森が描かれた完成予想図を見ると、日本の都市開発に新しい感覚が加えられているのを感じます。
◆◇◆
人の住む街。街は人が人のために創るのです。人間の感覚、人間の体がスケールになっていないといけません。
前述の新しい感覚で開発された街区を歩いてみると、高層ビルに囲まれているのに居心地の良さを感じます。たとえば、街のあちこちに色々な形の座る場所があります。舗道のあちこちになにげなく配された円筒形、球形、四角、いろいろな形の石。どれも座りやすく配慮されています。ビルの外周に沿って造られた花壇の縁は腰高で幅広く、奥側の方がわずかに低くなっているのでビルを背に座りやすい形になっています。ビルの壁も、巨大さの割になぜか圧迫感や恐怖感がありません。舗道や道路の色も形も、歩く人が自然に居られるデザインが施されています。
いわゆるヒューマン・スケールで街が造られているのです。こういう街が出現するようになったのはこの数年のこと。六本木ヒルズやミッドタウンが人間や景観を無視した居心地の悪い建造物であることを考えると、この変化が見られるようになったのはわずかこの2年ほどのこと、ということになると思います。
歩いていて座る場所があるかどうか、ということは街の居心地の大きな要素です。

善光寺の御開帳のときに気づいたのですが、権堂の商店街のあちこちに座るところがあるのです。たぶんそれぞれの商店が出し合っているのだと思いますが、ベンチや椅子があちこちに置かれているのです。それだけでも随分、訪れた人にとって居心地の良い街になるのではないでしょうか。
これに、訪れる人々をもてなす気持ちが加わり、空き店舗や広場を面白く使っちゃう知恵と融通性が加われば、そんなに大変なことをしなくても権堂はもっと居心地良くなるような気がします。
そう、座るところとトイレ、人の集まる場所と楽しい地図。居心地の良い街の必需品です。

◆◇◆
もうひとつ、最近どこへ行っても見られるのが住んでいる人々の高齢化。

「メディカル権堂・入居者募集中」。
権堂周辺にはこういった介護付きのマンションが増えているそうです。この街から転出して他所に住んでいた人たちが、歳を取って仕事を終えて、かつてすごした権堂周辺に帰って来ているのだそうです。
こういう方々が集まり、時折たずねて来る孫と一緒に遊びに行く場所、孫に何かを買ってあげる場所が、権堂のアーケードの中にあったら楽しいのではないでしょうか。そして時折、ネオンホールやロキシーや、はたまた奈良堂にやって来るサブカルチャー好きな若者たちと交わるような場所や機会があって、若者たちはおじいちゃんやおばあちゃんの知恵を受取る。
居住区とアーケード街の距離をできるだけコンパクトにして、道すがらには、ちょっと休んだり世間話をするような街の縁側があり、アーケードに入ると世代を越えて交わることのできるお店、お茶屋さんや映画館、神社の境内、サロン空間やイベントがあちこちにある。
……そんな空想にふけりながら権堂を歩き回った2009年でした。
居心地の良い面白い街を創るにはとても長い時間と根気のいる話し合いが必要のようです。街づくりに成功している小布施なども、住んでいる人や企業、行政が何年もかけて話し合いを重ねた末に、あの素晴らしい街を創り上げているのです。
とても独特な歴史と空気を宿している権堂。ここをふたたび人の集まる魅力的な街にするには、そこにある歴史と空気を利用することが一番有利なはずです。どこかの街を真似するんじゃない個性的な権堂商店街。いつかそうなって欲しいものです。

(写真、文:宮内俊宏)
2009.12.20更新
〜そして、それでも、こうしてわたしたちは生きている。〜

12月6日、日曜日。
師走の最初の日曜日の逢魔が時。
長野市善光寺の門前町にある「ナノグラフィカ」で、あるイベントが開催された。
「傘に、ラ。 vol.4 ~怪シイ会ニ誘ワレテ気分ハ憂鬱~」
時間になると、突然朗々とした声が会場に響きはじめた。
その声は、「彼」というひとりの人間のある時の生きざまをとうとうと語り続けた。
「彼」はうつになり、「彼」は仕事を投げ出して失踪し、「彼」は苦悩する。
だけれども……「彼」は生きている。今でも、生きている。
「彼」は、それを語る「ぼく」であり、それを語っているのはこのイベントを企画している「なかがわよしの」氏である。

このN-geneにも「なかがわよしのの400字」というタイトルで、短い日常の一コマを描いた文面で、読んだ者に何とも言えないいろいろな気持ちを呼び覚ます、そういう連載を続けている彼だ。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
わたしの元に、一通のメッセージが届いたのは、10月の末のこと。
「出演のご相談」というタイトルで届いたそのメッセージには、こう書いてあった。
ええと、
最近、即興朗読のイベントを
はじめました。
自分は即興で
ポエトリーリーディングをやります。
ただ、ひとりでは物足りなくて
「この人と面白いことがしたい!」
と思う人といっしょにイベントが
できたらなーと
考えています。
自分もうつ病経験者で
今も通院しているし、
薬も飲んでいます。
ただやはりまわりの反応が怖くて
おおっぴらには告白できないでいます。
偏見をなくしたい、というよりも
うつでも生きていけるさってことを
コマちゃんと伝えられたらと思います。
ちょうど、この10月、わたしは自分の住んでいる地域の主催する講演会で、うつについての講演を頼まれていた。自らのうつの体験を元に、うつについて知ってもらうことで「人ってみんな一生懸命に生きてるんだよ」ってことを伝えたい、それをテーマに講演を組み立てていたわたしは、この「うつでも生きていけるさ、ってことを・・・」の一文にとてもひかれた。
やります。
すぐにそう返事を返しつつ、ひとつなかがわさんに質問した。
「傘に、ラ」って一体どういう意味ですか?……と。
その返事として帰ってきたのが、これだった。
傘にラ
というのは
「今」という意味です。
「今」の
上の部分が「傘」で
下の部分が「ラ」です。
「今」………そうか、「今」かぁ。
わたし自身、心にいつも持っているテーマが「今を大切に生きる」ということ。なので、なかがわさんが「今」というテーマを持ってやっているこのイベントに声をかけてもらえたのが嬉しく、とても楽しみになった。
11月の末、当日を前にした打合せの時は、それぞれのうつの体験を語りながら、来てくれた人に何を持ち帰ってもらおうか、という話で討論し、気がついたら3時間近くも話し込んでしまっていた。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

なかがわさんの「詩の朗読」では、彼の自らのうつに対したときの赤裸々な思いを、その「彼」を横で見つめている「ぼく」という人物がとうとうと語る。
時に重く、時に軽妙に、流れ出すその言葉の力。
それはまた、わたし自身のうつの体験とも重なって、心にどかんとぶつかってきた。
詩の朗読からそのまま、わたしとのトークセッションにはいる。
「スマイルコーディネーターって、なんですか?」
それは、わたしの肩書きとして名刺にも書いてあることば。わたしが2度のうつ体験から立ち上がったときに、心に浮かび上がった自分の方向を示すことば。
それが何かと問うなかがわさんの言葉につられて、わたしも自然に自らのうつの体験を語りはじめた。
それはもう、数分じゃ語れない。
「スマイルコーディネーター」という肩書きで自らの道を歩こうと決めるまでには、2回のうつの体験と、そこに至るまでの仕事での学びと、苦しみと……から始まっていることだから、結局25年という間の自分の教職生活をかいつまんで話すことになる。

できるだけ簡潔に、必要な部分だけ……そう思いつつも、「だから、スマイルコーディネーターなんですよ」っていうところに行き着くまでには30分以上もかかってしまった。
けれども、そこに至るまでに、自分の体験となかがわさんの体験とをお互いに語りあい、絡ませながら進んでいて、多分、その場にいる人たちには「うつってこういうことなんだ」ということが伝わったんじゃないのかな、と思っている。
そして、2人で決めた、この日来た人に知って欲しかった想い、
「うつ病だっていって、特別扱いする必要も、特別視する必要もない。
うつという病気にかかった『人間』がそこにいるという事実があるだけ。
みんな同じ人間で、その人がうつだとか、今朝の寝起きが悪くてつらいんだとか、ものすごく良いことがあってうきうきしているとか、そういう『状態』がそこにあるだけ。みんな、『生きている』ってことでは同じなんだ。」
……と、その部分に流れを持って行かれたのかどうかは、実はわたしもなかがわさんも、結構テンパっていたりしたのでちょっとわからない。
でも、なかがわさんのこの『傘に、ラ。』企画全体に流れる柱であり、わたし自身も自らの柱として持っている共通のテーマ、「『今』を必死で『生きている』」ということ、それは1時間半という間のお互いの話の中、自分たちの経験を通した想いの中に織り込んで、できるだけ伝えたつもりだ。

そんなこのイベントに参加していたひとりの方に、どんな感じだったのかをこっそりお聞きしてみた。
・・・・・・
まるで、「昨日ね~こんなことがあったのよ~」というように、軽妙に語られてはいましたが、それはまさしく体験した者しか語ることのできない、辛く、苦しい、体験談でした。でもお二人とも、沢山の笑顔と、ユーモアで、その辛い過去を明るく話してくださっていたのが、印象的でした。
二人とも、真面目で、ユーモアがあり、能力が高く、でもだからこそ、鬱病になったのではないかな?と何度も思いました。
「あぁ、鬱病って、よいひと がなる病気なんだ。」って。
でも、お二人とも、内服や、環境を変えることで、それを完全に克服し、その上で、自分たちのようにならないために、自分たちが体験した辛さの中にいる人たちに、どう接したらいいのかを語ってくださっていました。
中川さんの
「鬱になってよかった、なんて絶対に思えない」
と言う言葉。
スマイル・コーディネータ、コマちゃん自身の笑顔が、
いまでも忘れられません。

・・・・・・・・・……
このイベントが終わった後、わたしはこの記事を書こうと思っていたので、なかがわさんにちょっとだけ取材をした。その時に、改めて「なんでこの企画をしていこうと思ったのですか?」という質問をしたのだが、その時の答えは、この先にまだ続くなかがわさんの他のイベントの記事で書かせてもらうことにして、もう一つ、翌日になかがわさんから届いたメールの一節を、ここに転載させてもらおうと思う。
うつ病への理解とか
うつの人を助けたいとか
自分にはそういう使命感もないのですが、
昨日のトークセッションで
思い出したことがあります。
傘にラを始めた根本の根本には
自分が病気になって
迷惑や心配を掛けた人たちに
「僕はそれでも生きてます」
ということを伝えたい
という気持ちがありました。
それは大切なことなのに
忘れてました。
思い出すことができたのは
昨日のイベントのおかげです。
一緒におはなししてくれて
ありがとうございました。
なんかうまく言えんですが
とにかく、ありがとうありがとうありがとう。
ってことです。

人それぞれに、必死で生きて「今」がある。
それぞれの「今」が出会い、絡み合って新しい「明日」が生まれていく。
なかがわさんとのイベントを通して、お互いの「今」を持ち寄ることで、「明日」への可能性がより大きく広がるんだ、ということを感じさせてもらった。
わたしからも、ありがとうありがとうありがとう。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*
なかがわさんの「傘に、ラ。」のイベントは、この後も続きます。
このイベントを、数回かけて追っていってみようと思っています。
今後の予定は、以下の通り。
10年1月10日(日)「傘に、ラ。 vol.5 ~本当に好きな人は手に入らなかった~」
10年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」
10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.7 ~たかが芝居だ!~」
10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」
(詳細は、なかがわよしのの400字のページの左枠のなかをご覧ください)
メールマガジン配信中
【うつのくれた贈り物】~「うつ」からもらった、幸せの法則~
写真協力:なかがわさんのお友達 文:駒村みどり
2009.11.21更新

演劇のオーディションのお知らせです。
去年秋〜今年二月にかけて、『Nex-6〜プロの演出家と市民キャストに
よる演劇公演「海よりも長い夜」』として[N]主催で行った演劇プログラム
の別展開として、『七日間で作る芝居「柔らかいモザイクの街」』が
行われます。演出家は「海よりも長い夜」と同じ青年団演出部の西村和宏で、
今回は東京で活躍する俳優と、長野市でのオーディションから選ばれた
役者が入り交じり、七日の短期間で一気に作品化するという企画です。
主催は諸事情あってN-SNS実行委員会ではなく、「長野・門前暮らしの
すすめ」プロジェクトとなっていますが、実質的には同じメンバーが
企画・制作しています。以下は演出の西村氏からのコメント。
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今年2月に長野市に滞在し、オーディションで選ばれた市民キャスト・スタッフと
一緒に「海よりも長い夜」(作 平田オリザ)という作品を作り、
北野カルチュラルセンターで上演させていただきました。
その時、僕は偉そうにも、“ここ長野に何かを残したい”と思っていました。
種のようなものをまければと。
今回は、“その種を一緒に育てよう”と思っています。
東京で活動する俳優数名と一緒に長野市内に滞在し、作品を作ります。
戯曲は第13回劇作家協会新人戯曲賞を『ハルメリ』で審査員の圧倒的支持で
受賞した黒川陽子さんに長野県をモチーフにした新作を書き下ろしていただきます。
この作品に出演していただける俳優、スタッフを公募します。
年齢・経験は問いません。
私と一緒に、ここ長野で演劇という芸術を愛でるように育ててくれる人の
応募をお待ちしております。
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プロの演出家・役者達と、一週間で芝居を作り上げる…
なかなか(かなり?)スピーディでスリリングな企画です。
オーディション締め切りは12/6、まだまだ間に合うので
興味がある人はぜひとも申し込んで下さい。
あ、役者の他にスタッフ(舞台裏方、宣伝、制作など)も募集
しているので、演劇に興味があるけど役者はちょっと…って
人も大丈夫ですよ〜。
…ところでNex-6「海よりも長い夜」の制作ノート的な
実況サイトは今読み返してもなかなか面白いと思いました。
(文:清水隆史)
※お問い合わせ
「長野・門前暮らしのすすめ」
2009.11.10更新
先日レポートした[N-ex8]~権堂 映画館コンサート~「ハンバートハンバート小夜曲」の
続編というか映画館前の広場で行われたマーケットの様子を追加レポート。
天気は薄曇り(ヨーロッパ風)。
権堂アーケードに面した映画館の前にテントが13機建ち、
中央で薪ストーブがたかれ上空には万国旗が舞う…
出店は、
「Slow CAFEずくなし」
「青空屋台」
「どうらく園」
「百竹屋」
「kef」
「雑貨屋パライソ」
「いちごば考房かたくり」
「へそ屋」
「Re楽×海羽根」
「団地堂」
「前田一郎」
「one and only」
「ミルクホール」
「秋元紗智子」
「ナノグラフィカ」
といったメンバーで、
その内容は、有機野菜、皮製品、セレクト古本、カレー、すいとん、マッサージ、手作り雑貨、服、ガラスのコップ、手作りのお菓子などなど・・・
と、どれも人の手をとおったあたたかな物ばかり。
さらに会場入り口、お蕎麦屋「戸隠」の店先をお借りして、
ulla(ウーラ)というアイリッシュバンドの生演奏もありました。
こう書くと、とても支離滅裂な感じがしますが
全体的に不思議に良いバランスで
なんだかすごく愉快なマーケットだと感じたのは私だけでしょうか?
アーケード内では、定期的にハンバートハンバートの歌が流れていて
コンサートに向けての気分も盛り上げます。
オシャレ雑貨だけじゃなくて、おいしい野菜も。
おいしい野菜だけじゃなくて、手作りの身につける物も。
身につける物だけじゃなくて、あそびやリラックスも。
すごく贅沢なマーケットだったなぁ。なんて今更おもいます。
マーケット目的で来た人はもちろん、
道行く人やコンサートに来た人が立ち寄って
楽しそうにお店の人と話しているのをみて、
肌寒いなか、ひとりほくほくとした気持ちになりました。
私はアイリッシュ音楽についての知識はないのですが
繰り返されるなつかしくも陽気なメロディーが
どんどん身体に入ってくる楽しい音楽。
なんといっても本人達が楽しんで演奏しているのがよくわかって
一緒に楽しくなっちゃうひとときでした。
そしてあっという間に日は暮れ、いよいよハンバートハンバートの
コンサート、開演。
2009.11.05更新
先日(日本で一番)古い映画館、長野ロキシーで行われたN-ex8イベント、
ハンバートハンバートコンサートの様子を
ネオンホール(長野ロキシーと同じ町内にあるライブハウス)
制作スタッフがレポートします。
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ハンバートハンバートは2年くらい前から
ずっと長野に呼びたいと思っていたアーティストでしたが
なかなかネオンホールに呼ぶことが叶いませんでした。
きっかけはマーガレットズロース
(「ネオンホール」というCDも出している東京のバンド)
がライブ会場で販売していた「高田渡のトリビュートCD」。
そのCDの中のシンプルだけどじゅうぶんな
ハンバートハンバートのうたに感動して、
当時ホールで頻繁にそのCDをかけていました。
その頃から(ullaのメンバーが貸してくれた)
オリジナルCDを聞いたりしてるうちに
巷でもなにかと名前を聞くようになり
ライブを観た人の感想を聞いてうらやましがったり、
直接連絡をとってライブのおさそいをしていたものの、
結局ネオンホールでのライブは実現しませんでした。
それでも何となく「ハンバートハンバート、いつか長野で観たいなぁ〜」
(個人的には誰かが呼んでくれたら絶対観に行くのに!)という
淡い想いを抱き続け、半年くらいたったころ
ふと「ロキシーにだれ(アーティスト)呼びたい?」という・・・
これは願ってもない絶好のチャンス、と思われる機会が与えられ
そしていろいろありつつ、(中略)とうとうハンバートハンバートを
長野に、しかも権堂に!呼ぶことが出来たのです。
権堂はネオンホールがある町です。
自分達の町!と言えるほど地域に根ざしてもいないし
実際の交流もあまりないのですが、
17年間ネオンホールは「この町」で営業をしてきてきました。
町内で仕入れをして、毎日長い時間をここで過ごしてきました。
町の中では歴史が浅い店かもしれませんが、
紛れもなくネオンホールは権堂で生まれて権堂で育ってきた、
という事実が、私にこの町に対する愛着を感じさせるのだ、と思います。
つまりは・・・、
ロキシーで、イベント出来ることが決まって、うれしかった!
ということですよ。
基本的に古い建物を愛する(理由は美しいから!ほか)傾向が強い
ネオンホールスタッフにとって「権堂」かつ「古い映画館」でのイベントなんて
心弾まないはずがないのです!
しかも長野ロキシーは、大きな映画館では絶対やらない
粋な企画を毎月こつこつと続けていて町の中でも常に気になる存在。
そのロキシーを盛り上げるお手伝いを今回の企画で少しでも出来る、
むしろ、一緒になにかやれる、なんて面白そうじゃないですか。
ということで、心弾ませて企画した今回のイベント。
実際のコンサートの様子を写真でレポートします。
私は一部目、最後の2曲しか落ち着いて見られませんでした。
最後の「大宴会」は佐藤良成さんヴァイオリンを弾きながら歌う、
壮大な雰囲気の曲。
でも歌詞をよく聴くとちょっと、どきっとする。
二人の声と楽器の調和がびっくりするくらいきれいで、
終始鳥肌が・・・。
そして二部目は終盤お客さん参加型の曲もあり
元気に楽しくやってこう!という感じ。
すごくよかった。
アーケードで流れるうた。
古くて味のある映画館。
会場にはいって、スクリーンの前に立った二人と、
そのすぐ後ろにまっすぐ伸びてゆれる二人の影。
そして一音目。
気持ちいい声。
優しいうた。
お客さんの優しい顔。
2時間も演奏してくれたのに名残惜しい気持ち。
他の人の企画に遊びに行くのではなく、
自分たちが好きだと思っている場所に
好きだと思っている人に来てもらえて
その結果たくさんの人達といろんな気持ちを共有できて、
とてもうれしかったです。
この町に対する愛着がまた少し強くなりました。
ネオンホール・ナツミ
2009.10.31更新
〜D&DEPERTMENT PROJECT 長野市上陸〜
9月19日。
「シルバーウイーク」突入直前に、長野駅近くに新しいお店が開店しました。

「D&DEPERTMENT PROJECT」というそのお店は、日本全国各都道府県に一つずつ、を目指して現在各地での展開を進行中。
日本のデザインシーンを「売り場」の視点から考え続けるそのお店に並ぶのは、「ロングライフデザイン」をキーワードにセレクトされる主に60年代を中心に生まれた品質本意の「良品」たち。
60年代。
日本が高度成長を遂げた時代。
戦争の傷跡が薄れ、廃墟から立ち上がった日本が欧米に比べて遜色のない力をつけようと始動を始めた時期。
実は、私は1960年生まれなので、まさにこの時期に幼少時代を送っています。
家庭にテレビが一台、洗濯機も冷蔵庫も一家に一台置かれ始めた時期です。
「もの」に対しての意識はとても強く、「いいもの」「長持ちするもの」が求められていました。白黒テレビで流れるCMでも、品質の良さや丈夫さをアピールするものが多かったように思います。
今でも覚えているのが、自分も持っていた筆箱のCM。
「ゾウが踏んでもこわれない」というキャッチコピーが流れるその画面で、実際に筆箱の上にゾウが乗っかるのですけど、あの巨体にびくともしない筆箱はものすごく頼もしく見えました。
実際、小学校の時に買ったその筆箱は落としても踏んでもびくともせず、私が大人になって子供たちがおもちゃ入れに使うまでずっと活躍していました。
あの頃のものは、本当にしっかりできていました。値段は決して安くなかったので,ものを買うのに何をどう選ぶのかを一生懸命に考えて買い物をしました。
学校の文房具……鉛筆一本、ノート一冊買うのにも、じっくり考えて買っていたように思います。

ものに対してのそういう思いや意識がちゃんとあった時代。なので「落とし物」の持ち主が見つからない、などということはあまりなかった記憶があります。
人の生活の中にものがある。ものは人とともにちゃんと存在する。
使い捨てではなく、長く、ずっとともに生活するものとして。
……60年代とは、そういう時代でした。
なので、このD&DEPERTMENTのコンセプト「ロングライフスタイル」を聞いたときに、私はものすごくうれしくなりました。
今は、傘一本100円、腕時計も1000円で買えてしまいます。すぐに動かなくなっても、使えなくなっても、新しいものを手に入れた方が補修するよりも楽ちんです。
「修理する」という言葉もあまり聞かなくなりました。
60年代を生きてきた自分には、それはやはりなんだか悲しく薄っぺらく感じてしまうのです。ものとの関わりが薄くなって、愛着あるものに出会う機会も少なくなって。
そんな「ものとの出会い」にわくわくする機会が減っている今、かつて物が共にあった時代の心を生かしたお店ができるのですから。
さて、お店のコンセプトが先に立ちましたが、D&DEPERTMENT PROJECTは今年で10年目を迎えるそうです。東京、大阪、札幌、静岡、そしてこの長野が5店舗目の展開になるのです。
代表であるナガオカケンメイ氏。
彼は、1965年北海道生まれ。2000年、「デザイナーが考える売り場」を追求すべくデザインとリサイクルを融合した新事業 「D&DEPARTMENT PROJECT」を開始。2002年より日本のものづくりの原点商品、企業だけが集まる場所としてのブランド 「60VISION」開始。カリモク、ノリタケなど12社とプロジェクトを進行しています。
デザイナーが、自ら売り場までデザインする。商品を生かすデザインで……。
このコンセプトは、お店のオープン前からちゃんと生きていました。
わたしはお店の準備期間から取材におじゃましてきたのですが、お店の改装自体がすでに業者にお金払って任せきり、ではありませんでした。

専門家の手が必要な部分は業者がやっていましたが、それ以外の部分・・たとえば周りの壁を塗るところは自分たちでやり、事務所の机やショーケースは自分たちでリサイクル、そうしてスタッフが自ら手を加えながらお店ができあがっていったのでした。
また、お店に並ぶ物もスタッフが厳選した物。D&DEPERTMENTのオリジナルの商品の他に「地域の中でもデザイン的に優れた物産」を取り上げて扱うので、ここに来ると県内の品物も手に入れることができるのです。
D&DEPERTMENT PROJECT の長野店の代表である瀧内さんは、開店前に県内の優れた品物をセレクトして、それをお店においてもらえるように各地で交渉を重ねました。

この日は、小布施堂の市村社長と真剣にミーティング。
こういうことを重ねつつ、次々とお店に並ぶ品物がラインナップされていったのです。
そうして、いよいよオープン前日。
オープニングセレモニーが華やかに開催されました。
1Fは、開店後はカフェとして展開するのですが、この日はパーティー会場としてたくさんの人が詰めかけました。
2Fは、ショップです。翌日からの開店に向けて、すでによそ行きの顔になった品物達が所狭しと並んでいました。
お店の2階の、ビフォーアフターをご覧ください。
【BEFORE】

【AFTER】

「売り場からすでにデザイン」というお店のこだわりがあちらこちらに感じられる店内では、「お店」とは思えないくつろぎ方で商品の良さを感じている人々の姿も見かけられました。(本も、ソファも、机も照明も、みんな商品なんですよ。)

そして、ゆっくり見回す店内には、その「物」の背景と一緒に展示された品物、長く使われていまだに見覚えのある品物………。

このはさみ!丈夫で切れ味よくて、切る力も少なくて。私もずっと愛用している一品です。
大学ノート。飾り気がないやつだけど、どんな用途にも使えて。自分でシール貼ってアレンジしてみたり、勉強ノートになったりお絵かき帳になったり。紙が厚手で、消しゴム何回かかけても破れにくいし、ほつれにくい。
真ん中の写真は「ふきん」。奈良県の物。縫っている写真が添えてあって、作った人の心がそこに一緒にかいま見えます。
2階から1階に下りてみます。
ここは、長野店のオリジナルカラーを出しているところ。

1階のスペースは「トラベル情報」が集まっているD&TRAVEL CAFÉのスペース。
「長野市を歩くときにまずここで情報を仕入れてから出かける、県内の情報もここで仕入れて出かける、それも美味しいコーヒーを飲みながらね。」
と、瀧内さんの思い入れいっぱいのスペースです。
カフェ横のスペースに、県内のトラベル情報や物産が並ぶ棚が置いてあり、喫茶スペースでは「丸山コーヒー」のまめを使った美味しいコーヒーはじめ、県内産のジュース、夜にはビールやワインなども味わうことができます。
パーティの夜はそれらがふるまわれましたが、新鮮なジュースは目に鮮やかでのどごしさわやか、添加物もない安心さで疲れた体にしみていきました。

長野駅近くのここで一息入れながら、長野県内の情報をつめこんで。
そうして長野市内巡りや県内各地へ旅立っていく。
そういう「情報の提供」と「県内のおいしさ紹介」もここでやってしまおうという目論見です。そう、旅人の旅の「デザイン」のお手伝いもしてしまうということなんですね。
さて。
いよいよ開店当日。
緊張の面持ちだったのは、スタッフの皆さんだけではありませんでした。
売り場の商品たちも、心なしかよそ行き顔でかしこまっていました。

2階スペースで一番緊張した顔をしていたのが、多分リサイクルの品々でしょう。
新しい持ち主を待って、ドキドキしていたに違いありません。
このD&DEPERTMENTで扱うのはオリジナルの商品だけではなく、リサイクルの物もあります。セレクトするのはスタッフ。デザイン的にお眼鏡にかなった物をまるで新品同様に磨き上げて、お店に並べるのです。
「リサイクルの食器でも、そのまますぐに水を汲んで飲めるくらいにちゃんと磨き上げてあるんですよ。」と、瀧内さん。
その他に、学校の教室で使われた机の天板を利用した写真立ても。(写真左上)机に残った小さな傷もそのままに、かつて学校でいろんな子供が使った温もりを閉じこめて、新しく写真立てとして並んでいました。
D&DEPERTMENT PROJECT NAGANO by COTOは、オープンして1ヶ月。
その歩みはまだまだこれからですが、「ロングライフデザイン」というそのコンセプトそのままに、長野市の一画で新しい「デザイン」を提示していくことでしょう。

写真は代表の瀧内さんと机の天板利用写真立てにおさめられたお祝い寄せ書き。
写真・文:駒村みどり
2009.10.24更新

10月17日・18日の2日間、あがたの森公園の芝生の広場で「クラフトピクニック」が行われました。
「クラフトピクニック」は毎年5月に行われている「クラフトフェア」の姉妹的イベントとして2002年にスタート。今年で8回目になります。

「ものづくりの現場を見せる」ということがピクニックの大きな目的。
なので、「体験(ワークショップ)」もしくは「実演」ということが出展の条件になります。



作家さんの仕事風景を実際に見られる機会というのはなかなかありません。
木を削って作るスプーンや、鍛冶(かじ)、スピンドルを使った糸紡ぎなど…ふと目に入ってくると、足を止めてじっと見入ってしまいます。
作家さんの邪魔にならないように声をかけてみます。
「これ、何を使っているんですか?」
「できあがるまで、どのくらい時間がかかるんですか」
何度も聞かれたであろうそんな問いにも、穏やかに返事がかえってきます。
作業の手を止めたり、ときにはそのまま進めたりしながら。
ワークショップでは、大人も子どもも楽しみながらものづくりができます。



親子連れが多いのも、ピクニックの一つの特徴です。
子どもより本気になったお父さんの姿や、お母さんの手を振り払うくらいの勢いで懸命に作業をする子どもの姿。
ものづくりを通して、親と子にもいろんな会話やいろんな思いが生まれてくるのかもしれません。
昨年に引き続き出展していた「工房あらい」のとんぼ玉作りは、今年も大人気。
新井さんに手を添えてもらいながら、くるくると棒を回していきます。


徐々にできていくとんぼ玉。
作っている子どもも、それを見ている子どもも、息を詰めたり、笑顔になったり。
「子どもたちの目が輝く」ということを、本当に体感できます。
革のバック作りを行っていた「kurosawa」では、ひと針、ひと針と真剣な眼差しで革を縫う人々の姿が。

参加した人は、アドバイスをもらったり、隣の人と会話したり(思ったようにいかず、ときには励ましあったり)しながら、2時間ほどでバックを作り上げていました。
「フェアのときは、忙しくてあまりいろんな人と話ができなかったけど…今回は作りながらお客さんとも話せたし、他の出展者とも話せたしよかった」と出展者の黒澤さん。
参加した人からはワークショップで作った作品だけではなく、いつも作っている作品についてもたくさんの質問があり、黒澤さんは一つ一つ丁寧に応えていました。
「革って、今までどうやって作っているのか全然わからなかった。でも、今日知ることができた」
そんな声を聞きました。
きっと「革」だけじゃなくて、「糸」「布」「椅子」…そんな発見が、会場の随所であったのだろうと思います。


「ものづくりを伝える入口にしたい」と実行委員長の谷口泉さんは言います。
「ものを売ることが目的ではない。昔は現場を見ることができたが、今はその機会が少なくなってしまった。」と谷口さん。
フェアにもその精神は息づいています。ですが、規模が大きくなってしまうと、なかなか皆が同じ思いではいられない―そこにジレンマがあるのだと思います。
「来る人も、出展する人も、同じような気持ちでいられるよう、ゆっくり、ゆっくり進めていけたら」願いのような、谷口さんの言葉。
当日、会場内で配布されていたチラシにはこう書いてありました。

芝生の広場をぐるっと囲んだテントの数はおよそ80。
随所で手が動き、会話が交わされ、ものが生まれていきます。
どうやら「作り手」と「使い手」はもちろん、「作り手」と「作り手」、「使い手」と「使い手」の間にも、生まれていたようです。
目に見えるものも、見えないものも。

(文・写真 松本経済新聞 山口敦子)
松本経済新聞