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早春の大鹿村・大河原地区

2008.02.28更新

コメント [1] 

「村の元気」シリーズ 〜その1〜

写真、文:宮内俊宏

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 長野県南部、下伊那郡北東部の山岳地帯に大鹿村はあります。伊那市、駒ヶ根市、飯田市や松川町、中川村と豊丘村に隣接して、東境の向こう側は静岡県の北端、人の住んでいない大井川の源流地帯です。周囲を伊那山脈の深い切り立った山ひだに囲まれ、その稜線の先、間近に南アルプスの頂を望むとても風景の美しい村です。

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 伊那山脈と赤石山脈、南アルプスの深い谷間をフォッサマグナ(中央構造線)に沿って国道152号線が走っています。茅野市から入り伊那市高遠から大鹿村を通って飯田市上村に抜けるこの道はすべて山の中。分杭峠と地蔵峠が冬期通行止めになるため、12月から3月いっぱいまでのあいだはふもとの松川町からしか村へ入るルートがありません。しかも、その2本ある道路のうち1本は落石や雪崩の危険性が高く、ごく稀に「本日通行可」になる以外はほとんどが全面通行止め。

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 深い山懐に抱かれた秘境ともいえる大鹿村ですが、美しいだけの村ではありません。
 ここは大鹿歌舞伎という高度な伝承芸能を継承している村であり、近年、独自のライフスタイルを持つ人達が都会から移り住んで来たり、集落の婦人たちによる村の生活を楽しくする活動が盛んだったり、なんだか元気のある村なのです。
 一方で、建設材料としての砕石が大規模に行なわれていたり、全域に落石注意の標識が立つくらい道路が寸断されやすく頻繁に工事が行なわれているため、大型のダンプカーが細い村道をひっきりなしに往来している、美しいだけではすまされない地域だったりもします。

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 2月下旬、大鹿歌舞伎の浄瑠璃語りの第一人者であり保存会の会長である片桐登さんに会うため、この大鹿村に行きました。

 ぽっかりと暖かい穏やかな日でした。

 飯島町と松川町の境のあたりで、「本日通行可」の標識についつい釣られて、普段は全面通行止めの危険な山道に分け入ること30分。急な斜面の中腹を裂くように作られたつづら折りの細い道を、あちこちにある崩落の跡や落石、崩れて来そうな頭上の斜面の雪にどきどきしながら走り抜けると、小渋湖の少し上流で松川町の中心部から来る県道に合流します。ほっとひと安心。

 大鹿村の入口には村役場があって、道がふたつに分かれます。向かって左、北の方角へ鹿塩川に沿っているのが鹿塩地区。右の大河原地区は南東へ、赤石岳を源流とする小渋川に沿って広がっています。いずれも険しい複雑な山肌が屏風のように切り立っているので、少し陽が傾くと谷底ではすぐに暗く陰ります。谷底の道からまわりの急斜面を見上げると、暗く陰った家並みの向こう側に裏山の山肌が明るく、美しい陽射しを浴びているのが見えます。この谷間の風景の特徴です。午後の時間の経過に従って影の等高線は次第に山肌を登って行くのですが、その寒暖のくっきりと分かれた色彩の美しさはなんともいえません。

 大鹿歌舞伎保存会の会長・片桐登さんはとてもやんちゃなかんじのおじいちゃんでした。浄瑠璃の弾語りをするときの名前を竹本登太夫といいます。片桐さんの子供の頃からの歌舞伎と大鹿村との物語はとても面白く、南信州の興味深い歴史を織り込みながら一代記のように語られます。この物語と大鹿歌舞伎については別の機会に記述する予定ですが、大鹿村の誇りはやっぱり歌舞伎にあるのだと思います。
 かつては村内13カ所の神社やお堂の境内に、回り舞台や奈落、太夫座を備えた芝居専用の舞台があったそうです。現存する舞台は7カ所に減っているようですが、それにしても、山間の狭い谷間にわずかな戸数で暮らす集落にこれだけの本格的な舞台が造られたのは驚くべきことです。

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毎年春の定期公演が行われる大磧神社_左奥にあるのが舞台、大自然に囲まれた野外劇場です。

 片桐さんが子供の頃、昭和初期の以前から、ここ大鹿では祭芝居に参加することが村の若者の誇り、芝居に出なくば男ではない(大鹿の歌舞伎は女性も演じますが)という土地柄だったのだそうです。小さな集落ごとに行なわれる氏神の祭に、毎年わずかな戸数で歌舞伎は上演されてきました。しかも、やれば良いというレベルのものではない、芸としてしっかりと磨かれた芝居であり、演目も20近くを数えます。誇りを持った芸能でなければその水準は保てません。この隔絶された辺境で、厳しい生活環境の中で、大鹿村の歌舞伎は人々がそこに住む根拠、心の拠りどころであり、祈りにも似た強いエネルギーを持つものだったのだと思います。

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 毎年春、5月3日の大磧神社舞台、秋、10月第3日曜日の市場神社舞台で行なわれる大鹿歌舞伎の定期公演には、毎回1,500人あまりの観衆が集まります。地元の人達、帰ってくる人達、全国から集まる地芝居の愛好家、大勢が集まるということです。
 この定期公演の他、1975年から続けられている大鹿中学校歌舞伎クラブでの指導、全国に招聘されての公演や数度に渡るヨーロッパ公演、2000年の3月には地芝居として初めて国立劇場で上演され大成功をおさめるなど、長い間続けられている積極的なアウトリーチ活動によって、現在全国に150近くある地芝居の団体の中でも大鹿歌舞伎はリーダー的な存在で全国に知られています。

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 大河原地区、小渋川沿いの集落から曲がりくねった山道をひとしきり登ると、一段高い台地の上に上蔵(わぞ)と呼ばれる集落があります。
 集落の入口には国の重要文化財、建立を平安末期とも鎌倉期とも伝えられる福徳寺本堂があります。長野県最古の木造建築物ともいわれ、明治時代から特別保護建造物に指定されている、見るからに歴史的な重みを感じる建物なのですが、集落へ入る急坂の上にさりげなく建っています。坂道で疲れたら本堂の軒下の縁に腰掛けてひと休みもできます。この縁側は、腰掛けると小渋川の谷筋の向こうに真っ白い雪を冠った赤石岳のどかんと大きな姿が見える絶景ポイント。

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 この上蔵集落は、福徳寺以外にも南北朝時代にこの地に入った後醍醐天皇第八皇子・宗良親王(むねながしんのう)の流れをくむ史跡が点在します。中央構造線の隆起を思わせる断層の露頭を背景に緩やかな斜面にできた風景の美しい集落です。福徳寺の裏手の丘の上、南アルプスを眺めるように墓標がならんでいるのが印象的でした。

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 大鹿村には、いろいろとこだわったものづくりをする人が集まっています。

 数頭の牛と山羊を飼って手作りの本格的なゴーダチーズを作っている「アルプカーゼ」が有名です。手作りでできる分しか作らないのだそうです。このアルプカーゼのご主人・小林さんという方は、村が取り壊しを決めた旧大河原中学校の校舎を有志を募って保存、移築し「延齢草」という宿泊施設を運営しています。昭和中期、戦争直後に村民総出で建築した大切な村の文化資産は、当時の外観そのままに、階段やテーブルなどの備品も当時のものを使って現在でも利用されています。

 また、南米グァテマラ、標高1800メートルの高地で先住民族マヤの人々が栽培する産地直送コーヒー豆を日本に輸入販売している方が、ここ大鹿村に住んでいます。農薬や化学肥料を使わず手作業で収穫されるオーガニックなコーヒー豆です。田村寿満子さん、田村アキさん、ご夫婦が運営する「カフェ・マヤ」です。南山(みなやま)という地区の上の方に住んでいらっしゃるということで「4輪駆動でなければ無理だよ」と片桐さんに言われ、今回は訪ねることを断念しました。ご主人のアキさんは、有機栽培で良質な野菜を作り自給自足を実現していらっしゃる方とのこと。いつかお話を伺ってみたいものです。

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上蔵集落で出会った漆原幸さん_大鹿村のいろいろな活動を推進していらっしゃいます。

 上蔵集落の中程で、農作業の帰りらしいおばあちゃんに声を掛けられました。外から来た人を見かけると必ず声を掛けるようにしていらっしゃるそうです。
 漆原幸さんは、大鹿村へ入る幹線道路の落石防止ネット一面に真っ青な朝顔を咲かせたり、集落のおばあちゃんたちを組織して農産物を手作りで出荷直売したり、いろいろ元気な活動をしているこの集落の語り部のような方です。漆原さんのご自宅前の道ばたで、しばらくこの村の様子について話を伺いました。

 高齢化がかなり進んだこの村では、今年のように雪の多い冬は雪掻きが一苦労です。片桐さんもおっしゃってましたが、雪掻きは農作業よりも足腰に負担がかかるのです。この集落の家屋もかなり空き家が多くなっていて、降った雪の処理は本当に困ったようです。
 典型的な過疎の村ではあるのですが、最近では、その風景の美しさや大鹿歌舞伎に象徴される文化的な魅力も手伝って、都会から移住してくる人、UターンやIターンで入って来る人が増えているようです。

 市場原理はこういう経済的に末梢にあるエリアに厳しく働きます。需要がなければ供給されないという原理は特に景気が低迷するとひときわ辛い状況をもたらします。消費経済の視点ではこの村に未来はないでしょう。
 けれど、前述の片桐さん、アルプカーゼの小林さんやこの漆原さんのように、この地域に蓄積された美しい文化を積極的に育てることで、この地域に魅力や誇りが生まれ、外から人が移り住んで来るようなことに結びつくことがあります。

 ここの住民のみなさんの認識についての記述が地方事務所が行なった懇談の議事録にありました。以下、概略。
 「過疎化の問題や一極集中の問題は歴史が解決してくれると思っている。ここは昔、炭焼きで儲けて賑わい、エネルギー革命で石油に取って代わられて寂れました。でも都会も疲弊して逃げ出したいと考える人も増えています。石油資源も底をつきかけて次のエネルギー革命がすぐそこまで来ています。この森林や自然の美しさに価値が出る時代がまた来るかもしれません」

 アイディアの元気な村は風景が美しいだけでは終わりません。

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夕暮れの小渋湖

大鹿村ホームページ

コメント

どれも良い写真ですね。俺は18年間大鹿に住んでいました。実家は福徳寺より下にある部落の道沿いの家
です。福徳寺(上蔵部落)にはよく行きました。となりの部落ですからね  大鹿は最高です。大好きです。
都会にいるから逆によく思えるようになりました。

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