N[エヌ]発行のオンラインマガジン|N-gene[エヌジン]
制作・編集/ナノグラフィカ
« 2008年02月 | N NEWS & REPORTトップへ | 2008年04月 »

2008.03.30更新

[ma]ワンマンライブ「Una Voce n-7 Grazie!」
1999年より活動を続けてきた[ma]が活動を休止することになった。
3月30日、ネオンホールでの最後のライブが行われ
会場には90人(満席状態)の観客が集った。
ライブは三部からなっており全部で約4時間。
結成から今に至るまでの曲を時代ごとに構成し
休憩時間にはこれまでのライブ映像をスクリーンで流すなど
メモリアルな雰囲気もありつつ
ゆったりたっぷり贅沢なステージを展開した。
二人が初めてつくった曲「Happy BirthdayY」や
音楽活動をするきっかけとなった「To Sky」
(平安堂presents「第2回 集まれ! ミュージシャンコンテスト」で優勝した曲)など
昔の曲も披露。結成当初から二人を知る関係者は涙を流しながらステージを見守っていた。
それにしても二人の歌、うまいな〜、いい声だなと思う。
本人たちも「遊び気分で結成した」と言っているけど
当時、こんなに二人が頑張るとは誰も思っていなかった(と思う)。
可愛い二人組の女の子がなんか楽しそうにやってるね〜っていう程度。
しかし、二人はとにかく自分たちがやれることその都度考え実行していった。
県民文化会館でのワンマンライブや長野県縦断Liveツアー。
二人のイメージからすると、
なんかフワフワしていて趣味っぽいように感じるんだけど
実際にライブを見たり、やってきた事実を並べてみると
全然趣味じゃないね〜、これは仕事の領域だね〜と思わされる。
・スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野大会公式サポートソング
・八十二銀行 CMソング
・テレビ信州<ニュースプラス1>エンディングテーマ
・第87回全国高等学校野球選手権長野大会 開会式出演
(長くなるので以下省略)
などなど、地元密着型?の音楽活動をたくさんしてきて
地元ミュージシャンとして
かなり多くの人に認知されていたのではないかと思います。
いつだったか三四郎(FM長野に出ている三四郎さん)が
「[ma]は長野で一番がんばってる(ミュージシャンだよ)。あいつらはすごいよ」
と言っていた。
二人の嫌味のない一生懸命さは普遍的な魅力があったと自分は思う。
なぜ解散するか、これからどうするのかについては聞けずじまいだが
これからの二人の人生に幸おおからんことを願って。
2008.03.28更新
「村の元気」シリーズ 〜その2〜

南信州、遠山郷の山あいに建つ木造校舎・旧木沢小学校は1932年の春建築。五・一五事件が起きた年です。軍事クーデターが起きて総理大臣が暗殺され軍国主義の時代へ入って行く年にこの校舎はここに建てられ、それ以降続いている日本の迷走をこの谷間から見続けてきたわけですね。
その間ここ遠山郷では、軍用材搬出のために敷設された森林鉄道による林業の好景気、人口急増と、林業の衰退、高度経済成長期の若年層の流出、急激な過疎化を経験しました。76年という齢の中でコミュニティーの膨張と収縮を見て来た近代史の精髄が、この校舎には含有されているような気がします。

校舎から広い校庭を見た右脇に、木沢の人々が「宿直室」と呼んでいる棟があります。雑然とした共同炊事場のような雰囲気なのですが、なんだか自然で居心地の良い場所です。
ここで、木沢地区活性化推進協議会・会長の松下規代志さん、霜月祭保存会・会長の鎌倉博登司さん、おふたりと数時間お話しすることができました。インタビューではないのですが、話の中から感じた遠山郷、木沢のことなどを少し記述しておこうと思います。
過疎化が進んでいる木沢では日常的にいろいろな困ったことがあります。
まずは、やっぱり、高齢化と若年層流出による氏子減少、霜月祭の担い手不足。祭の準備から本祭まで、およそ年代別にそれぞれの役割を担うわけですが、村に住む若者が減ってしまい、人手が足りなくなっているのです。
お年寄りたちは外出することも少なくなっているようです。足腰が痛く車にも乗れないので自然と家の中にこもりがちになり、ご近所同士のお喋りも少なくなってしまいました。
昨年末、木沢正八幡神社の霜月祭に来たときに神社の隣りの鎌倉商店のおじいちゃんに聞いた農地の荒廃も深刻です。鎌倉商店のおじいちゃんは農地荒廃の解決がいちばん急務だとおっしゃっていました。
これは、単純に休耕地が増えて行くというだけでなく、シカやサルやイノシシが畑を荒らす被害も年々増加しているようです。けものが増えたのは、畑や草刈場の縮小、エサになる雑木の減少、温暖化による発情期の長期化、高齢化や山肉相場の下落による狩猟の減少など、いろいろな理由が考えられています。

けれど、けして木沢の人達は希望を失ってしょんぼりしているわけではありません。木沢地区活性化推進協議会は「話さまい会」というワークショップを通して「木沢の宝・大発見マップ」を創ったり、お年寄りが外出する機会やコミュニケーションをはかったり、その中から解決すべき問題を洗い出したり、南信州の他の地域と恊働するための「愉快な仲間たち」ネットワークに参加したり、独自のアイディアでぐいぐいと問題の解決に挑んでいます。
「限界集落」という言葉があります。65歳以上の人が人口の50%以上を占める集落を、高齢化が進んで共同体の維持が限界に達している集落と定義付けています。統計的には何らかの根拠でそういう定義が生ずるのかもしれませんが、その概念の中には人のエネルギーや集落の持つ個性、文化や精神性、誇りなど、数値に変換できない要素は含まれていません。
いっぽう、経済的に失策ばかりを繰返す未来のない日本の中では、統計的な思考、数量でものごとを解釈する間接的な方法では進めなくなっていると思います。必要なのは、人口や所得水準ではなく、そこにどういう人がいて、どういうアイディアが生きているのか、ということになってくるはずです。人のアイディアが持っているエネルギーのことを視野に入れないと進めない。
「自分たちのことは自分たちでするんです」
いろいろな話をする中で、松下さんや鎌倉さんは何度かそうおっしゃっていました。ごく普通の言葉なのですが、与えられる利便性に馴れきってしまった現代の人々に、どれだけそれができるでしょうか。
木沢のような山間の集落では生活のすべてに渡って利便性が低く、互いに助け合うことでいろいろな問題を解決して来たということを、ここの人々はごく普通のこととして認識しています。便利なものがたくさん用意されている他の地域と比べて嘆くようなことはまったく考えていません。
南信濃村が飯田市に合併したことについて訊ねると、情報発信に広がりができること、負担の分散が可能になることなど、長期的に見て有益な要素が大きいという答えでした。行政の中心が離れたぶん、当然末梢感は強くなっているけれど、もともと自分たちは自分たちで助け合いながらやって来たから平気なんだ、ということなのです。たぶん、この地域の根底には極太の精神性が通っているんですね。

木沢小学校が廃校になったとき、この校舎をどうするべきか、いろいろな議論が交わされました。その中から木沢の人々が選択したのは、そのままの姿を維持しながら後の世代に活きた意義や価値を残して行くことでした。なので、この校舎の中では意図的に、廃校になったときそのままの状態を保存しています。
けれど、それは単なるノスタルジーを求めて死んだ標本として固定保存しているのとは違います。木沢の家々から徐々に集まって来る木沢の生活文化の結晶ともいうべき物品が時代に沿って次第に展示を充実させ、風化するものも風化を前提に、放置されるのではなく掃除され磨かれながら時を経て、時間が経つほど豊かに、この谷間に宿る文化や精神は活きたままここに存続して行くのです。
解りにくいけれど、それはとても大事なことで、そこに積み重ねられた文化や精神性を、その場にほど良い姿で残して行くという方法は、いろいろな状況の中で社会が誇りを持って活きて行くための指針になるはずなのです。普遍的な生命力を持ったアートのように、そこから受取り手が自分の解釈と想像力を駆使して適時的なアイディアを創造するための礎になるものなのです。
廃校当時から校舎の保存の問題に取組んで来た松下さんや鎌倉さんの言葉からは、そういった長期的、文化的な視野を含んだ重層的な思考が伝わって来ます。松下さんも鎌倉さんも、別に学術的な分野でそういうことを考えている方ではありません。生活の中から導き出されて来ている考え方なのです。
その考え方の理由を訊ねてみたら、「そうすることがあたりまえなんだ」という答が返って来ます。きっと、そういうことなのです。

廊下や階段には遠山出身の写真家・秦俊夫さんの作品が常設展示されています。この谷間の人々の生活を克明に愛情を持って記録した秀逸なドキュメンタリー作品が並んでいます。
校舎の中ではいろいろなテーマの写真展や霜月祭に関する展示が常設されています。そこで長い年月を経て、これからも長い年月を過ごして行く生活の品々を、祭の道具を、教材やピアノやオルガンを、少しずつ手入れしながら現存させて行くのです。そういった眼に見えないアイディアの蓄積が、ここを訪れる人々に大きな活力をもたらしてくれているのを感じます。

ストーブで暖まった宿直室の大きなテーブルで話をしていると、木沢の人達が三々五々集まって来ます。
夕方、製材所での仕事を終えた帰りだという高橋輝成さんが宿直室にやって来ました。高橋さんは、数年前から木沢の人々と一緒に地域の問題に取組んでいる経済アナリスト・藤原直哉さんが主宰する「遠山藤原学校」の事務局長として木沢に移り住み、住民として地域のいろいろな仕事や祭に参画している、まだ20代前半の方です。
数年前、大学時代に初めて木沢を訪れ、この旧木沢小学校の校舎の中で直観的に「自分はここに住もう」と考えたそうです。どんな理由でそう思ったのかを訊き出そうとしたのですが、ご本人もはっきりとはわからないそうです。遠山郷の大きな自然に触れ、厳しい谷間に人が住む有様に驚きを感じ、この校舎の中へ足を踏み入れたときに「そう決めた」ということなのですが。
おそらく、こういうことがアイディアのエネルギーの成せる技なのだと思います。わかりやすい数値やスローガンとは別の次元にある目に見えない人間のアイディアのエネルギー。それは、この「旧木沢小学校の古い木造校舎」という建築物の表面から発生するものではない、そこに注ぎ込まれた遠山郷・木沢を取巻くすべての人々のアイディアのエネルギーから生まれて来るものなのだと思います。それが「文化」というものなのかもしれません。
このことを僕達が社会水準で理解するにはまだまだたくさん時間がかかると思いますが、こういう場所に来て、こういう場所で人と出逢って、いろいろな話を交わして行くことでその本質に接近することができるかもしれません。
松下さんと鎌倉さんと「もっとゆっくりできる日に酒でも飲みながらのんびり話をしましょう」という約束をして、日暮れ近く、旧木沢小学校を後にしたのでした。

(写真、文:宮内俊宏)
2008.03.23更新

3月8日、松本のアレックスというライブハウスで
開催されたイベントを紹介します。
CRAZY RHYTHMS(クレイジーリズム、略してクレリズ)は1998年から
主に松本でやっているライブイベントで、ジャンルは・・・
なんて言うのかよくわからないけど、
(そもそもジャンルを気にしてやっているのかも知らないのですが)
ジャズとかじゃなくてギターポップ?とか単にロック?とかそういう感じで、
毎回必ず長野のバンドと県外(海外)のバンドが出ています。
私が今まで観た感じだと、「ちょっと変わっていて完成度が高い」バンドに
出会えるイベントです。
この日はその50回目という記念すべき日でした。
今回出演していた「OGRE YOU ASSHOLE」というバンドは
長野県原村出身で、最近毎回CRAZY RHYTHMSに出演しています。
そのオウガのメンバーは高校生の時、このイベントの主催者
牧野さんが経営しているCD屋さん(プラネッツ)に出入りしていて、
牧野さんに出会い、そして当時クレリズに出ていたバンドにあこがれて
クレリズに出演するために活動を始めたのだそうです。
(今回一緒に出演していたmooolsはその時出演していた)
そしてCRAZY RHYTHMS Vol.12でその想いは成就し、
最近は「ROCK IN JAPAN」に出演したりART-SCHOOLとツアーをしたりと
全国的に活躍している人気バンドです。
ちょっと複雑ですが、いろんな想いとかつながりがあって
それぞれ今に至っているということです。
なのでCRAZY RHYTHMSは、牧野さんの音楽センスと地元愛で
地元のバンドを育て上げたイベントでもあり、
50回という節目の回で、長野からクレリズを経て全国で活躍するバンドと
そのバンドに大きな影響を与えたバンドが再会して同じ舞台に立つという
なんとも感慨深い一夜だったのです。

YO-MA
ドラムの人がすっごくたのしそうにドラムをたたいていた。


mooolsといしださん
右の坊主の人がいしださん。
私は3年前くらいのクレリズでmoools(モールス)を観て
演奏のセンスの良さと、その芸風(?)にやられました。
今回も前日に長野市でのライブを観ていたのだけど、どうしても
観ておきたくて2夜連続でmooolsを体感しました。やっぱりよかった!

OGRE YOU ASSHOLE
バンドの合間に牧野さんが挨拶をしたり、最後には出演者全員と
スタッフがステージにあがってみんなでオウガの曲を演奏していました。
そんな事もあって、クレリズ50回目はちょっとアットホームな雰囲気でした。


お客さんも一緒に。
追記:クレリズに出ているバンドのジャンルはギターポップではないそうです。
「オルタナ」というらしいです。つまり「変わっているとか、主流じゃない」っていうことみたいです。
2008.03.20更新

長野県は「日本のスイス」なんて言われるほど精密機械産業が
盛んなわけですが、その中でも大きな存在なのが諏訪のエプソン。
現在はプリンター等で知られる同社は、かつて諏訪精工舎
という名前で、機械式の腕時計を盛んに作っていたんですね。
機械式の腕時計というと、今も昔もスイス製が有名です。
戦前〜戦後すぐまでは、多くの国でスイス製の時計を勝手にコピーしたり、
手本にしてアレンジした製品なんか作って、でも品質は劣るもの
だから安く売ったりしていた。
そんな状況の中でスタートした戦後の日本の時計産業は、
スイスのメーカーに追いつき追い越すことを目標に頑張ったわけです。
で、はっきり追い越したかどうかはわからないけど、
機械式腕時計の精度において追いつき、追い上げるところまでは行ったんです。
それと同時にクォーツ式という革新的なシステムを製品としてまとめて
機械式の腕時計自体を過去のモノにしてしまった(1969年のことです)ため、
「日本の時計メーカーはクォーツ腕時計でスイス勢を追い抜いてトップに立った」
と書かれることが多いです。けれど、機械式の腕時計でもかなりの事はやっていた。
1960年代後半には日本もスイスと並ぶくらいの技術・生産力があったんです。
その後スイスの時計産業は日本製クォーツウォッチによって
壊滅的な打撃を受け、80年代にスウォッチがヒットするまで低迷を続けるわけです。
しかしこの後機械式時計は見直され、特に90年代以降は状況が一変…
と、腕時計の、戦後史を語りすぎても仕方ないのでここらへんで割愛しましょう。
長い前置きになりました。要するに
「諏訪湖畔は世界一の機械式腕時計の生産地であった。」
って事が言いたいわけです。
そして、
長野を愛する長野県人といたしましては、そういった諏訪製の高性能な
機械時計に注目してみるのはどうだろうか。
…というか、もうすでに私は勝手に注目・実用しておりまして、
それをここで紹介していきたい! と思うのです。
あ、その前にまた細かい事を一つ。
1970年代までのセイコーは、諏訪精工舎と東京・亀戸の第二精工舎の
二社で違うタイプの腕時計の製造を行っていました。なので、
古いセイコー製の機械時計(手巻き、自動巻など)の全てが
諏訪湖畔で作られたわけではありません。
で、その見分け方なのですが、全ての年代には通用しませんが
ごく簡単な識別法があります。上の時計の画像から切り出した
この部分↓を見て下さい。

この「HI-BEAT」の下にある「♯」に少し似たマーク。
これが文字盤か裏蓋に入っている時計は、諏訪製です。
(ちなみに手裏剣みたいなマークだと亀戸製になります。)
どこにも「諏訪」とか「SUWA」とは刻印されてませんが、
このマークがある場合は間違いなく諏訪製なので、覚えておいて下さい。
何か今回は前説みたいな話になってしまいました。
長くなったのでこの辺で終わりにして
時計の紹介は次の機会(っていつなんだ?)にさせていただきます。
ちなみに本文の上にある時計は
「キングセイコー・クロノメーター 5626-7040」で、
1971年、諏訪精工舎製造です。
シンプルで美しいでしょう?
善光寺の近くの某時計店にて1970年頃に買われていき、
いろいろあって自分の手元に来ました。
つい先日同じ時計店にて分解清掃済みです。
まさにジャパニーズスタンダードといえるデザイン。
40年近く前の時計とは思えないほどの完成度です。
(写真・文:清水隆史)
※現在のセイコーエプソンでは、諏訪湖畔ではなく塩尻に
「マイクロアーティスト工房」という部署があり、そこで
複雑で高級な芸術品とも言える腕時計制作を行っています。
そちらのお話しはまた後日…!
(2010.2改訂)
2008.03.16更新
「村の元気」シリーズ 〜その2〜

霜月祭の故郷・遠山郷は長野県の最南端、伊那山脈と赤石山脈に挟まれて南北に走る奥深い渓谷にあります。東西を挟む山脈の崩壊土壌によって形成された急傾斜の農耕地、谷底を流れる遠山川の流域に点在する集落、険しい山肌が間近に迫り山間に南アルプスの稜線が威容を覗かせる独特の景観が、何とも形容しがたい神秘的な感覚を生む場所です。
遠山郷は概ね3つの地域に分かれていて、北から入ると上村、南から入ると和田、木沢はちょうど真ん中にあります。遠山川に沿って走る国道152号線から少し西にはずれた旧道を進むと、小高い丘の上に地域の公共的な役割を果たす施設がいくつか集まっていて、その核のような位置に木沢正八幡神社と旧木沢小学校の木造校舎が旧道を挟んで建っています。

木沢小学校のこの校舎は昭和7年の春に建築されました。ここがまだ木沢村だった時代です。
そもそも木沢村で学校教育が始まったのは明治5年のこと。村の中にある霜月祭の舞台を利用して修身学校が発足したときの児童数は14名。そして明治時代の終わりに木沢正八幡神社の向かい、現在のこの場所に校舎を新築したときは69名に増えていました。昭和7年に現在の校舎を新築。すべて遠山の木を使って建てられた校舎です。
第二次世界大戦の頃、南アルプスの国有林で軍事目的の森林開発が始まり、軍用材の搬出のために遠山森林鉄道が敷設されてから遠山谷の林業は劇的に活況を呈しました。林業の好況に連れて村の人口は倍増し児童数も増加。昭和20年のピーク時には300名を超える子供たちがこの校舎に通っていました。
終戦後しばらく林業の好況は続きます。遠山村と木沢村が合併して南信濃村になった昭和35年頃には250名を超える児童数を維持していました。ところが、その後状況は一変します。
既存の伐採地に木材がなくなり、急峻な奥地を切り拓いて行くために事業経費が膨らみ、さらに集中豪雨などによる軌道の被害が重なって採算が悪化したため、昭和43年に遠山森林鉄道は廃止。
林業の衰退と重なるように迎えた高度経済成長期、若年層の村外流出が始まり遠山郷は急激に過疎化が進みます。児童数も減少の一途をたどり、平成3年、閉校となった最後の春の児童数は26名でした。卒業生が8名と在校生が18名。
平成12年に完全に廃校となった後、木沢の精神的な支柱であったこの木造校舎を残すために様々な取組みがなされて来ました。行政や教育委員会との軋轢も少なからずある中で、木沢の人々はできるだけそのままの姿で校舎を残す方法を模索しました。
廃校となった木造校舎というと、多くの場合が立入禁止となって管理され、あるいは放置され、地域のフィルムコミッションなどによって映画や写真の撮影の時だけ貸し出される仕組みになっていたり、そうでなければ、少し人の集まりやすい場所に移築され、商業施設として再利用されたりすることが多いのですが、この旧木沢小学校はそのどれとも違う形をとっています。
学校として使われていた頃の姿をできるだけ残し、当時そこにあった教材や机、黒板、教室のいろいろな道具を今もそのままそこに置いてあるのです。

南信濃村が飯田市に合併された後、現在この校舎の所有は飯田市観光課になっていますが、維持管理は木沢地区活性化推進協議会が中心となって木沢の人々によって行なわれています。
正面玄関を入った突き当たりの廊下に大きなガラス瓶が置かれていて、ここを訪れた有志がその中に協力費を入れるようになっています。校舎を存続させるための維持費は、このガラス瓶に集まった有志の人々の協力費によって賄われています。
当時の形をできるだけ残しながら、霜月祭の道具や写真を展示した教室を作ったり、木沢の家々から歴史的な遺物を持寄って少しずつ展示を充実させたり、廊下や階段には、古い木沢を撮影した写真展が常設されています。

最後の一年生の教室には、当時使われていたピアノがそのまま残されていました。とても珍しい形をしたアップライト・ピアノです。ほとんど調律されていない様子なのですが、大きな胴の鳴りが特徴的な、何とも魅力的な音をしたピアノです。このピアノを、この長い時間と空気に鍛錬された性質そのままにほんの僅かだけ音を整えて、ちゃんと魂のこもった演奏者によるコンサートを開いてみたいものです。さぞかし奥深い、いろいろな想像が掻立てられる演奏会になるに違いありません。

正面玄関を入った取っ付きの階段を上がると、踊り場上の天井裏のような部屋の壁に運動会の大玉送りで使う紅白の大玉が仕舞われています。まるで、最後の運動会が終わった後ここに片付けられてそのまま今日まで置かれているみたいです。竹で編んで布張りされた大玉の、手に触れた一瞬たわんで、適度な重みと竹の軋む音を残しながら後ろの方へ転がって行くかんじが、秋の運動会の冴えた空気のかんじが、瞬間的に記憶の中に甦って来ました。
薄暗くなった2階の廊下で、自分の小学校の頃の記憶が、忘れたまま一度も思い出したことのない記憶が急に蘇った時の驚きで暫く立ち尽くしてしまいました。それは、ちょっとほろっと来る、ちょっと嬉しい体験でした。

旧木沢小学校の校舎の脇、渡り廊下の先に木沢の人々が「宿直室」と呼んでいる棟があります。そこはどうやら地域の人々がふらっと立ち寄る場所になっているようなのですが、ある日の午後、その宿直室で木沢を牽引して来た2人の方に話を聞いて来ました。
この厳しい生活環境と歴史を持つ木沢を永きに渡って牽引して来た、とてもインディペンデントなふたりのじっちゃんです。とても面白い話でした。
つづきは3月下旬「遠山郷・旧木沢小学校 〜下〜」で。
(写真、文:宮内俊宏)
2008.03.11更新

先月、花屋のようこちゃんが花屋をオープンしました。
っていうのも変ですけど独立したってことです。
ノーノ分室(県町にあるオシャレなセレクトショップ)の一階にあります。
お店の名前は「つぼみ」。
店主ようこちゃんの審美眼により
キュッとセレクトされた植物が並んでいます。
普段、花を買うなんてことはあんまりないんですけど
こういう店が近くにあったら、散歩がてらに出かけていって
「今日なんかいいのある〜?」
とかいって500円分ぐらい買うのもいいなあと思います。
定食屋に行ってメニューを見ないで
日替わり定食を食べる感覚に似ているかもしれません。
お店の花を見て思ったことは
かわいい〜、ん?意外と安いのね。
ということ。
はっきりと値段が表示されていて大変わかりやすい。
それでこれならなんか買って帰ろうかな〜と思っちゃう。
ようこちゃんは、お店がオープンする直前の
1月にフランスに行ってきたらしいのですが
そこで高級花屋さんに入ってみたら
全部に値段がついていて、いたく感動したそうです。
今までのお店では値段をつけないスタイルだったけど
自分はこうしようと思ったとのこと。
ちなみに私は緑の植物(名前忘れた)をふたつ買いました。
個人的には、
このお店ができてちょっとだけこの通りが明るくなった気がしました。
そう思うと花の持つ力は、あなどるべからずなのかもしれません。
ライフスタイルへの欲望をいい意味で刺激してくれる花屋さんです。

なんか不思議とワクワクする空間です。

本日のおすすめ。ミモザ。

ノーノの入り口にあった鉢植え。
ノーノ分室にお邪魔すると「一階に花屋さんができたんですけど、普通の花屋さんでは置いてないような珍しいものがあるんですよ、麦とか・・・よかったらのぞいていってください」とノーノのスタッフがお客さんに言っていた。

フラワーアレンジ。お店に花を活けにいく仕事も受けている

ガレージのようなオープンな空間。店先に人が集まってくる。なんか愛されてるんだよなあ。
2008.03.08更新

「ビッグコミックスペリオール」(小学館)連載中の「ラーメン発見伝」という漫画が、一ヶ月ほど前から長野のラーメンをテーマにしていますね。「長野をテーマにしたマンガを見つけたら追いかけて紹介する」ことを半ば(勝手に)義務だと思っている私としましては、これは見逃せない事態なのです。
しかし、ハッキリ言って、私は「ラーメンブーム」とか「ラーメン博」などという華やかな世界には馴染めないんですよ。ラーメンというと誰も注目しないような、内外装ばかりか作ってるオバサンやカウンターで一杯やってるオッサンまでもが骨董品みたいに熟成?されたお店で、テレビの野球中なんかを横目で見つつ背中を丸めてズルズルと啜り食うのが好みなんで、どうか皆さんあまり騒がないでいただきたい…みたいなノリが好きなんです。だからラーメンブームの一端を担うこの作品には、正直言って全然興味が無かったんですが…長野の風景が描かれているとなると話は別です。もうそれだけで無条件に嬉しくなってしまい、黙ってはいられないので、ここに紹介いただきます。
では手元にあるスペリオール2008年・3/18号の「ラーメン発見伝」に出てくる長野県の風景を追ってみましょう。
まず、最初に出てくるのはJR上田駅〜駅前。そして舞台は東御市に移動しますが背景は無しで、次に長野市。県庁周辺と善光寺山門が描かれています。ここまでは写真を元に説明的に風景を描いただけ(と思われる)なので、あまり面白みはありません。ところが、最後の方で主人公達は中央通りを長野駅に向かってブラブラと歩いていきます。おお、見慣れた風景の中で会話が始まった! で、そこで約4ページに渡り長野のラーメン話が繰り広げられるのですが…風景はよく見ると全てコピーによる使い回し。姿勢としては歩いているのですが、風景はずっと「アゲイン」ビル向かい〜長野しんきん石堂支店の前のままなんですよ。
うーん、惜しいです。せっかく実在の景色を描く姿勢を見せたんだから、主人公達をその中で動き回らせて欲しかったです。その点、去年「ビッグコミックスピリッツ」連載中の「ボーイズ・オン・ザ・ラン」が長野を舞台にした際は、キッチリと長野駅〜信大教育学部〜善光寺周辺の景色を描いていたし(単行本8〜9巻収録)、数年前に同じくスペリオール連載の「キーチ!」が約1年にわたって松本を舞台にしたときなど、「作者は松本に移住したのか?」というほど執拗に松本市街地の景色をリアルに描き込んでいました。通った記憶はあるけど、マイナー過ぎて何処にあるのかハッキリ思い出せないような路地まで、道順も含めて完璧なんですよ。いやー、あの時は毎回興奮しましたよ。(単行本5〜8巻あたりに収録。興味がある人は是非一読を勧めます。余談ですが、この「道順が正しい」ってうのは、実はかなり難しいことだと思うんですよ。)
あ、これだと「〜発見伝」を全然評価してないみたいだな。いや、そんな事はないんです。本来は「長野のラーメン事情」という、全国的に見ればマニアックで、かつ扱い方を間違うと色んなところから非難されかねないテーマに挑んでいる点を見るべきですよね。…すいません、重箱の隅みたいなところを話題にして。まあともかく、ストーリー展開からいって「ラーメン発見伝」長野編はあと数回は続くと思われます。妙な視点で申し訳ありませんが、もっと長野の景色がしっかりと描かれることを期待して、今後も勝手に注目させてもらいたいと思います。
(文・清水隆史)
※↑のイラストは、今回の「〜発見伝」の1コマ目を表そうと思ったものです。汚い絵ですみません。(転載許可を得る時間がなかったため…。)
2008.03.05更新

さて、この人はなにをしているのでしょうか?
3月4、5日第15回日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(NIPAF)が
長野市で開催されました。
東京→川口(埼玉)→守谷(茨城)と各地で公演を行い、最終地点としての公演でした。
ニパフは、アーティストでありニパフ代表の霜田誠二さんが’93年からはじめた
パフォーマンスアートのイベントで、世界中のアーティストが霜田さんの元に集い
ツアーしてまわるおまつりです。
私自身ニパフを観るのは今回で3回目くらいでした。
ほぼ年に2回開催されているのですが、はじめて観たときは
「なんなんだ〜?いみわからん〜」という風にしか観られなくて
ただただ、もやもやして最後まで観なかったりしていました。
でも見方がわかってきたのか
(意味がわからなくてもいいものはいい、と思えるようになった)
年々おもしろくなってきて、知り合いが参加していたのもあってか
今年は最初から最後まで楽しむことができました。
ニパフはパフォーマンスアートを発表する場なのですが、
外国人アーティストが多く参加しているので
会場にいるのは外国人のほうが多く、そうなると必然的に英語か何か
(身振り手振りとか・・・)でコミュニケーションをとらざるを得なくなります。
「アップルの綴りってどうだっけ?」などと言っていた私も
英語(など)を話さなければならないのです。
それでもみんな多少変な言葉でも理解しようとしてくれるので
いつのまにか「あやしい言語を話す自分」に慣れて、友達ができたりして・・・
いままで踏み出せなかった所に踏み出せる気がします。
パフォーマンスの内容にも、それぞれの国の文化、政治、
宗教、歴史などに関することが含まれているので
その国の事をもっと知りたくなります。
その事をふと後で思い出して「国際交流って単純にこういうことなのかも!」
なんて思える場でもあります。
(要は国際交流の場だって事です。)
以下、パフォーマンスの記録です。
3/4

一番上の写真から動くことはなく
(ずっと後ろを向いて座っていて、たまに時計をみる)、その開始後約15分後。
その間会場は静まりかえっていて、凄く長く感じました。
振り返った彼の上半身には「Do you comprehend how much time you will use?」という紙がはってあった。

観客もステージに上がる。
同じポーズをする。

人間コンパス?

霜田さんと息子のパフォーマンス。
「野沢菜がうまく漬からない」

インドネシアのアーティスト。
インドネシアは現代アートのアーティストがおおいらしい。

この日、77歳!!の誕生日を迎えた黒田オサムさん
大杉栄の本を片手に、観ている方がはらはらするくらい激しく素早く動く。

黒田さんの親友だというポーランドのアーティスト。
前日倒れて入院していたらしい。
観客に皮のベルトを配って「ぶってくれ」的なことをいっていた。
3/5

石で作った笛を吹いている、旧東ドイツのアーティスト。

よくわからなかったけど、紙を顔に巻き付けた日本人。


素手でパイナップルを砕いた女性アーティスト/ニパフ初参加の日本人若者。

キューバのイケメン美大生。
キューバのペルー大使館襲撃の時に市民が行った拒絶の演説をラジカセで流していた。
ニパフ代表の霜田さんは、長野市在住でニパフのほかにも
さまざまなアートのイベントをやっています。
2007年の9月には、長野市に海外を含めたアーティストを滞在させて、
街に出てリサーチし、その街の中でアート活動をするという
「第一回長野国際コミュニケーション・アート・フェスティバル(NICoAF)」
を開催しました。
そのほかにも海外でイベントをしたりと
いろいろなところで、いろいろな人たちの輪を作り、
楽しそうなことをしているひとなのです。
今回のニパフのパンフレットに、こんな霜田さんの言葉が載っていました。
「(前略)・・・何回も書くけれど、できることをしようと思って
ニパフを始めた訳ではない。
できない事をしようと思っただけだ。
できないことをしなければ、絶対にだめだという確信だけはあったのだ。
何も見えてなんか来ていない。ただ世界に吹く風を、
目をつぶって頬で感じる勇気だけがついたのだ。
ふたぶてしくも、大胆に。人間ができる事を、
誰に頼まれたわけでもなく、深く行う。
人間は、もっと自由なはずだ。・・・(後略)」
身体を張って、実現させて、活動しつづけている霜田さんだからこそ
言える言葉だと思います。
そしてきっと、まだまだNIPAFは続いていきます。
パフォーマンスアートは理解しやすいものばかりではないけれど、
理解はしなくていいんだと思います。
どこかでNIPAFをやっているのを知ることができたら
一度自由な気持ちで体験してみたらおもしろいかもしれません。
2008.03.01更新

信州新町にある「G&M WORKS」を訪ねました。
目的は、数年前に購入した土鍋のふちがかけてしまったので
修理の相談をすること。

自宅兼工房は「山の中」にありました。
国道19号から自動車で12〜13分ぐらいのぼったところでしょうか。
途中、アルプスがとてもきれいに見えました。
足下は、素人には難易度高めのアイスバーン状態でした。

「G&M WORKS」のメンバー?は
まとはまがんじさんと安竹みどりさん。
がんじさんのGとみどりさんのM。
「引っ越して来た時のまま何も手をいれてないんだよ」
と中へ案内してくれました。

床の間らしき部屋には、ふたりの作品が並んでいました。
カップや皿、茶碗、鍋・・・オブジェのような花器など。

こんなのや、

こんなの(これは帯留め)。

そして、ぐい呑み。
「これはがんじさんの?」
「ちがうよ」
「じゃあこれがみどりさんの?」
「ちがう(笑)。だいたい反対に言われちゃうんだけど」
「う〜ん、これがみどりさんのか」
「そう」
「じゃあ、これは・・・ってどうでもいいか」
「そうそう、結局ね、そういうことなの」
最初はどっちがつくったのかな?
とふと疑問に思うんだけど、選んでいるうちに
「ああ、どっちでもいいや。私はこれが好き」
って思えてくるのであります。
「相手の方がたくさん売れたりすると悔しいって思うんですか?」
と単刀直入に聞いてみた。
「そりゃあ、やっぱり悔しいですよ」
ふたりの間に流れる穏やかな空気感から察するに
「このふたりはもはや悟っている人に違いない」
と個人的には感じていたので
切磋琢磨しているということが意外だった。
制作に対して誠実に向き合っているんだなあと感じた瞬間。
「でも売れるものがいいものとは限らないんだよね」
とのことです。納得。

わがままついでに台所も見せてもらうことにした。
これは土鍋たち。
大小のかごもたくさん並んでいた。
ごはん専用の鍋、チャーハンを炒めたりする鍋、
餃子を焼いたりする鍋、野菜を煮る鍋・・・
金属のものも使うけれど
料理のほとんどはこの鍋できるという。
「野菜をただ入れておいて
蒸し煮にするだけなんだけど
これがすごくおいしいんだよねえ」

洗い物のかごの中。
ふたりがつくった皿とカップ、
ガラス作家・前田さんのコップが並んでいる。
「朝は毎日、生ジュースをつくって飲むの。
こっちの大きいのは生ジュースを入れて
こっちの小さい方はヨーグルトを入れるの」
こういう、なんでもないような話なんだけど
不思議とうっとりした気持ちになってくるのです。

朝ごはんはここで。
太陽の光があたる。
古い木のつくえ。
外には愛犬と工房。
「僕の仲間でこういう暮らしがしたいっていう人が結構いるんだよ。
でも、なかなか簡単にはできないっていうかね」
「なんか捨てなくちゃいけない感じがする」
「そうかもね、見栄とかもね」
「それと以外と大変なのが地元の人達とのつきあいなんだよね。
地元の自治会とかそういうのあるでしょ。
僕はお調子者だったりするからいろんなところに顔出して
すぐ仲良くなれたんだけど」
「あはは、そうなんですか」
土鍋の修理については、破片をもう一度くっつけることになりました。
4月に土鍋をつくるので、その窯を炊くタイミングまでしばし待機。
ちなみにふたりの家の土鍋は一度も欠いたり割ったりしたことがないそうです。
(レポート:高井綾子)