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2008.08.31更新
「昔から神の宿る山、あるいは霊山として信仰の拠点でありました
皆神山(みなかみやま)には、たくさんのふしぎなはなしが語り伝えられております。
古代神話としての天の岩戸(あまのいわと)ものがたりをはじめ、
慶長3年(1598)の田丸の殿様の鷹狩りに大天狗が現れ、皆神山での
殺生は許さないと殿様を叱ったはなし、侍従坊(じじゅうぼう)の着物を
無理に借用したので、城下の大火をひきおこしたというはなし、
修行僧たちの野荒らしをキツネのしわざにしてしまい、キツネの詫証文を
とったはなしなどがあります。」皆神山山頂の看板より。
ということで長野市のおとなり山の一つ?、松代の皆神山をレポートします。
皆神山、その名前がまず気になる所ではありますが、そのほかにも
松代群発地震(1965年から約5年間、松代地方で続いた地震。5年間の有感地震は約6万回を数える)
の震源地で、地震が発生したときには発光現象があったとか
山自体、大昔につくられた世界最古で最大のピラミッドだとか
戦時中、東京から皇居を避難させるために地下壕を掘ったとか
などなど、「なにかある!」山なのです。
平地から突然始まる斜面
皆神神社(みなかみじんじゃ)と、ピラミッド!への看板
次の分かれ道。もはやピラミッドの看板しかない。
天の岩戸神社
皆神山ピラミッドの入り口ではないかと言われている
一人で行ったので、怖くて中には入れなかった・・・。
そして皆神山がピラミッドだと言われる一番の根拠?!
駐車場にこんな看板があって、ここには皆神山の秘密が説明されています。
〈世界最大で最古の皆神山ピラミッド〉
皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。
この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり,電磁波が生じ、この磁力と重力制御(反動)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる(天の羅摩船)等がこの飛行体です。
〈謎の皆神山ピラミッド物語〉
皆神山は,古い古墳時代や弥生時代更に遡っての縄文時代やエジプト,インダス,黄河,シュメール各文明よりずっと古い、今から2~3万年前・・・(中略)・・・では、何のために造ったかというと,墳墓ではなく地球上の各地や,宇宙空間への航行基地として造られたのです。
・・・だそうです。
「ええっー!」というかんじですが、面白いのでいいです。
事実かどうかではなく、とりあえずその壮大なスケールに反論のしようがないです。
そんな皆神神社の敷地内には
などなど、ほかにも神様いっぱい!!です。

ゴルフ場と混在していたりして、凄いロケーション。
戦争中皆神山には皇室の住まいがつくられる予定でした。(地盤の関係で中止された)
でもふつう松代、地下壕といえば象山という山なのです。
象山にまだ地下壕が残っていて、中に入れるようになっています。
そこへ行く途中、いつも気になるところが・・・
かなり古くてぼろぼろな神社。
崖の途中に建っていて、町が見下ろせます。
竹藪へと続く道(?)。だれか今度一緒にいきましょう。
そして象山の地下壕入り口。
この地下壕は戦争末期に本土決戦に備えて、大本営(舞鶴山)、
皇族住居(皆神山・後に食料庫になる)、政府、放送局、電話局(象山)
を移転させようと秘密で工事が行われて出来たものです。
工事は敗戦の日までつづけられ、その掘削などの中心的な役割は、
当時植民地下の朝鮮からの強制連行者が果たしていたそうで、
中には事故や栄養失調や反抗して射殺されたりと、300人以上(1000人とも言われている)
の人々が犠牲になったそうです。
その300人とか1000人のひとはなくなってしまってもういないけれど、
その家族や関係のある人がもっともっとたくさんいて、
この事実を今も抱えて生きている事を想像してぞっとしてしまいました。
たのしいとか、美しいとか、貴重なモノはわりと簡単に大切に出来るけど
苦しいとか悲しいことこそ気持ちを傾けていかないといけないのだなとおもいました。
それにしても政府はなんで松代を選んだのだろうか・・・。
面白半分にはじめたひとり松代ツアーでしたが、地下壕に行き着いて
その歴史をあらためて目の当たりにしたとき、その土地の念というか、
よそ者には簡単に理解できないような奥深さをかんじて、遊び半分だった事を
ちょっと反省しました。
松代、どの町もそうなのだと思いますが、すごくいろいろな物語がある土地です。
ちゃんと勉強して出直します。
2008.08.29更新
この秋、長野市で「全国路地サミット2008IN長野」が開催されることになりました。
これは大変です!
長野市民が一丸となって、全国の路地マニアをおむかえしなければなりません!!
なーんて、そんな大げさなものではないのですが・・・「路地」というジャンルだけに
ある種の「ユーモア」や「ゆるさ」を持った人々が集まると予想されるので
そんなに血走らなくてもいいんですが。
この路地サミットは、
数年前(これもアバウトだな。詳しくはホームページをごらんください)に
東京ではじめて開催され、それ以後、全国に展開していった催しです。
「いい建物があったんだけど、その建物を保存するのにどうしたらいいか考えた。
その時、道を保存すればいいことに気がついた。それがはじまり」とのこと(かなり要約)。
一度やったら「今年はうちの街でやってや」という声が続き、現在に至るということらしい。
今年は候補地として「長野」と「神戸」があがっていたけれど、神戸が
「今ちょうどまちづくりの真っ最中で来年にはいい街になるからぜひ来年にしてくれ」
と申し出たため(多少脚色あり)、開催地は長野に決定したということでした。
何をするのかというと「全国路地のまち連絡協議会」のみなさんをはじめ、
全国から「路地愛好家」が長野市の路地を見物にやってくるわけです。
路地やまち歩きに詳しい地元の人々が案内して実際に路地を歩きます。
さらに講演会や路地を活かしたまちづくりの事例発表、
パネルディスカッションを行い
路地について考えたり感動したり明日への希望を手に入れたりするわけです。
二日間に渡って開催されますが、一日目の夜には善光寺大本願で交流会もあります。
というわけで、
全国の路地マニアなおっさん達には負けられん!と
早速、予習。
長野駅から善光寺までの間ぐらいの範囲には以下の名前がついた路地があります。
「羅漢(らかん)小路」
「桜小路」
「法然小路」
「上堀(かんほり)小路」
「下堀(しもぼり)小路」
「虎小路」
「花小路」(ここまでを「善光寺七小路」という)
「新小路」
「鐘鋳(かない)小路」
「鍋屋小路」
「権堂小路」(現 金比羅通り)
「菊屋小路」
「お蔵小路」
「清水小路」
「はんこ屋小路」
「しまんりょ小路」
(長野郷土史研究会の資料、冊子から引用)
思ったよりたくさんありました。
歩いてみると意外としょぼかったりするんですが
名前がすてきですよね。それだけで半分以上は満たされる・・・
路地を歩いてみたくなったり、また歩いて悪い気がしない。
いい人になれそうな気さえしてきます。
そして路地を気にしてみると「ふたをされた川」の存在も気になってきました。
「鐘鋳川」
「中沢川」
「北八幡川」
「南八幡川」
「古川」
「ふたをされた」というのは川が流れている上に道路をつくったということです。
長野市では知っている人も多い、常識的な話です。
「ふたをされてない」ところもところどころにあって
水の流れる風景がひょっこり現れたりします。
これがいい。実にいい。(おっさん風)
そして、川はふさがれていても道が曲がりくねっていてこれもおもしろい。
名前はついていないかもしれないけど、
これも「路地」と呼ぶにふさわしい雰囲気を持っていると思いました。

「古川」の図。「こんな道が長野にあるなんて」的景色

左)「写真撮っていいですかあ?」「お好きにどうぞ〜」気前のよさそうな店主。
中)川のほとりにたたずむ和洋折衷な民家。気になる。
右)県庁の交差点にある人工池。金魚が生息している

「北八幡川」の道の図。地元人に愛される名店多し。

左上)蔵を改造した「塩沢ホール」。水色のピアノを囲んで合唱団が練習している。
中上)栗が落ちていた。
右上)老舗味噌屋「酢屋亀」の煙突。長野には屋号に「酢屋」とつく店がいくつかある。
左下)水の音が聞こえてくる。確かにこの道の下を川が流れているのだ。
中下)木陰で談笑する郵便局員二人。あやしい・・・いやいや、あやしくない。ほのぼの。
右下)「酢屋亀」(右上)工場の裏に干してあった袋(味噌づくりのいいにおい)

「南八幡川」の図。
左)駅前エリアなのに、このグリーン。
中)川のシンボル、河童の像。
右)真夏の暑い日、「ここ、涼しいのよね」と
お母さんふたりが待ち合わせ場所に使っていた。
リサーチしてわかったことは
「路地は悪くない」ってことと
「まちあるき」をすると元気が出るってことでした。
「路地サミット」が開催される10月、
N-geneでは「路地月間」ということで
レポートしていきたいと思います。
お楽しみに〜。
(レポート:高井綾子)
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「全国路地サミット2008IN長野」
開催日:10月25日(土)、26日(日)
場所:善光寺界隈と松代
http://www.avis.ne.jp/~bunkanet/roji2008/
2008.08.29更新

御射山祭は諏訪大社の大きなお祭りで、やはり8月の終わりのこの時期に行なわれます。中世、戦国時代は八ヶ岳山麓、霧ヶ峰から原村、富士見町一帯で毎年行なわれていた大行事らしく、このあたりにはこの祭に関係する神社や地名が多く残っています。
平安時代の文献に最初にその記述が表れるこの夏の祭礼は、3日間、いくつかの社殿を移動しながら行なわれる大がかりな狩猟神事が起源。室町時代から鎌倉時代にかけては特に、全国から人が集まるビッグイベントで、幕府の下命によって信濃国の豪族が毎年持回りで運営していたそうです。大変でしたね。
山の中にある神社では、巻狩、草鹿射、相撲などの狩猟や武芸を奉納し、里にある神社ではお練り行列を繰り広げます。参列者はススキの穂で葺いた仮屋・穂屋で寝食しながらすごしたようです。なんだか、夏の野外フェスみたいです。
鎌倉時代の全盛期は将軍をはじめ幕府の要人、北条家、武将が全国から集まってその穂屋に宿を取り、民衆も大勢集まり、身分を問わず楽しんだということなのです。なにやら、信州の信仰や祭礼にはこんなタイプの、フラワー・ムーブメント的なレイヴ・パーティーのような風習が多いですね。
霧ヶ峰にある旧御射山神社脇の斜面には、この穂屋を設営した土壇が残っています。きれいに造成された土壇がいくつも、おそらく20区画近い土壇が今でも斜面に確認できます。
この界隈からまっすぐ南下して伊那山脈を分け入り、中央構造線に沿っていくつかの峠を越えて来ると、その南端がここ、遠山郷、和田になるのです。「御射山祭」の名前がこの南端の宿場街に残っているのも、この伊那山脈を巡る神聖な物語の痕跡かもしれません。

前日から祭の準備に取りかかった和田の人たちは、遅い午後、ひととおりの準備を終えてそれぞれの会所で酒食します。楽しそうです。街道に三々五々、人々が顔を出し、集まり、和田宿はだんだん賑やかになって行きます。
どの家にも軒先には古風な提灯が下がります。これがまた良いのです。なんでしょう、デザインがちゃんと風土や文化を踏襲しているから、この風景の中で自然に映えるのかもしれません。

◆◇◆
遅い午後、どこかで神輿の動き始めた気配がします。遠くでわずかに声が聞こえたり、会所にいた人たちがいつのまにか姿を消していたり、ほっこりと谷間の街道筋に流れている空気の中にじんわりと始まった気配が伝わってくるのです。
浴衣や甚平を着た子供たち、縁台の老人、久しぶりに帰省した家族、若者たち、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな街道に出始めます。とある軒先で、おそらく数十年ぶりに再会したおじいちゃんたちが自分の卒業した年を伝えて同窓生であることを確かめ合っています。

和田宿のまんなか、何軒かのテキ屋の屋台が並んだ路上で南を向くと、万国旗の巡らされた街道の先に迫るような稜線が見えます。この稜線の落ちたあたり、和田の集落を南に出はずれたところに諏訪神社の森があります。どうやら御射山祭のお練り行列はこの諏訪神社から始まるようです。

酒食を終えて会所を出た各町内会の神輿も、保育園や小学校の子供神輿も、商工会や企業、青年会も、すべての神輿やお練り行列が夕刻までに諏訪神社に集まりました。これは祭の作法としてとても楽しいやり方だと思うのですが、意外なことに、800年におよぶ長い歴史の中で今年が初めてのことらしいです。

この諏訪神社はもちろん、12月には霜月まつりが行なわれる神社です。社殿の土間のまんなかには湯立てのための竃が掘られています。立派な社殿です。和田の建築物は北隣りの木沢と比べて大きく立派なものが多いように思います。

提灯や行灯に火が灯り始めた夕方6時すぎ、神社の裏手で合図の花火が威勢よく打上げられました。子供神輿から順番に諏訪神社を出発します。およそ20基の神輿が秋葉街道を北上して和田宿に入り、賑やかに人を集めながら、辻々で休憩してもてなしを受けながら、宿場街の中を練り歩いて行きます。
しんがりを「観音霊水」の大きな行灯が務めます。軽トラックになかなか風情のある色合いの歌舞伎絵行灯を乗せて、接触不良でときおり音の途切れるラジカセから祭り囃子を流しながらお練り行列の後を追います。昔はちゃんと笛や太鼓の人が随行したのでしょうか。

今年の御射山祭はお練りの行列が宿場街に到着した頃から雨が降り始めてしまいました。
行列は雨のぱらつく街道筋を練り歩きます。あちこちで元気よくきおいを練りながら、宵闇の深まる和田宿を北へ向かいます。

終着点は和田の北のはずれにある遠山中学校。街道を練り歩いて抜けて来た行列も、行列と一緒に少しずつ歩いて来た観衆も、だんだん校庭に集まって来ます。遠山の谷はすっかり暗くなって雨足が強まっています。全部の行列が校庭に到着した午後7時すぎ、雨を衝いて3基の大三国が火を噴きます。おそらくこの夜いちばん雨足の強まった時間帯でした。お練りの終わりと大花火大会の始まりを告げる仕掛花火が天に向かって噴き上げます。
7時半、花火が谷間に轟き始めました。お練り行列を終えた人々が遠山中学校を出て和田宿の中心へと街道を戻ります。みんなずぶぬれです。
花火は遠山川の河原、和田地区のまんなかあたりの河原で打ち上げられています。
複雑な山襞から跳ね返ってくる音は低音から高音までまんべんなく、腹にドスンと来る太い残響が谷間の空気をうねらせます。
雨は少し弱まっています。次から次へ尺玉があがり、スターマインが轟音を轟かせ、そのたびに谷間を駆け巡る野太い残響が体を振るわせるのです。この感覚、なかなかたまりません。

夜はさんざん花火を打ち上げて、翌日2日目の昼、宿場街の中央にある広場の新しい舞台でいろいろなアトラクションを披露して御射山祭は終わります。
ふだんは静かな、山から降りて来る空気の音に耳を澄ます和田の集落。にわかに人のエネルギーが集まって高まって弾ける夏祭りは、一年の暮らしの中にちょっとした脹らみを拵えて、この山村の人々の営みに個性と表情を与えているように思います。
同じ遠山郷でもこの和田地区の雰囲気は陽性を感じます。祭の在り方や、観音霊水や復元和田城の作り方や使い方、地域のいろいろな資源に対する取組み方が、少しずつ元気で明朗なのです。これは、かつて遠山郷の中心地となる宿場町だったことから生まれた気質なのでしょうか。
たとえば、お隣の木沢地区はもっと控え目で、いろいろな出来事にストイックに取組みます。旧木沢小学校の残し方や、村の魅力として取り上げるものの種類や、霜月まつりの処し方、ひとつひとつがそれぞれの本質に近づくことを目指していて、地味だろうがわかりにくかろうがそのやり方の中で現代の新しい方法を探っています。
同じ霜月まつりを守り続けているふたつの地区で、距離にしておそらく2kmと離れていないこのふたつの地区ではっきりと気質が違うのです。さらに上村に行ったらまた違う気質があるに違いありません。
それぞればらばらな個性を持った地区が、神の宿る大自然を由来とするひとつの文化をそれぞれの方法で育てて行く。それぞれの方法を否定し合うことなく自分たちの方法を誇りながら、重層的な価値観や判断基準を持ってそれぞれの方法で高めて行く。そこに通底している理念は一緒。
そんな高い次元での交流やアイディアの環流が日常的に起きて行ったら個性的で豊かな地域が実現することは間違いありません。古来から他所の文化の往来を歓迎し、外の文化を融合させながら誇りを持って自分たちの流儀を続けて来たこの遠山郷の高い寛容性は、今までの枠組みを破棄して豊かな社会を作ろうとするときに必ず役に立つのです。
遠山郷の夏祭りをぶらぶらしながら、そんな精神的、文化的な豊かさが、ゆくゆくは現代社会を支配している消費経済的、物質的な豊かさに取って代わるといいな、と思ったりもしたのでした。

(写真と文:宮内俊宏)
2008.08.27更新

信州の南端にある遠山郷のさらに南部、まっすぐ南下すると10数キロで兵越峠(ひょうごえとうげ)を越えて静岡県水窪(みさくぼ)に達する山間部に和田はあります。古くは秋葉街道の宿場町。和田宿はさしずめ信濃国の南の玄関口ということだったのでしょう。
遠山の谷は大鹿村に繋がる日本最大の断層・中央構造線に沿って遠山川の浸食が生み出した深い深い谷間です。大鹿村から入る地蔵峠を北端に、上村、木沢、和田、3つの集落に分かれ、南端が兵越峠、青崩峠(あおくずれとうげ)。切立った複雑な地形と強く流れる地脈の中で生きて来た人々が固有の生活文化を形成した谷間です。
古く平安時代から同じ形で続いている湯立神楽・霜月まつりが全域で行なわれる神々の谷間でもあります。上村も木沢も、そしてこの和田でも、道ばたにある一抱えほどの石に注連縄が張られ紙四手が下げられていたり、風雨に削られた小さな道祖神の傍らに供物や花が絶えなかったり、いまだに八百万の神々を敬愛しながら生きている谷間なんだと思います。

ただ漠然と、あるいは手当り次第に路傍の石に縄を張っているわけではありません。その石に縄を張る理由がちゃんとあるのです。その理由は、何度かその道を往来するうちになんとなく感じられるようになってきます。
街道はもともと地脈に沿って人々が往来しているうちに自然と出来上がったものだと思います。地球には地脈があり、地脈は地形を象り、土壌や植生に影響し、生物を動かし、風景や大地の流れを作ります。人は古来、その地脈を感性によって検知することができました。その感性に従って自然に創り出したのがかつての街並だったりするのだと思います。
「地脈」という観点で街並を眺めて行くと、それに沿って作られた街とそうでない街の違いを感じることがあります。たとえば東京はなぜ醜いのか、同じ人の手によって構築されたのにヨーロッパの街並はなぜ美しいのか。今までは「美的センス」の違いということで捉えていましたが、それ以前に感性、地球の発するものを感じ取る感性があるかないか、ということが問題なのではないかと思えて来ます。

たぶん、路傍の石に毎日花が手向けられるこの谷間は、人間が本来持っている感性をごく自然に備えた人々が地球を感じながら暮らしているのだと思います。
複雑に折り重なった山襞はおいしい水を作ります。伊那山脈から伏流して遠山の谷間に湧き出して来る水は冷たくてきれいでミネラルたっぷりです。この谷間では街道筋のあちこちに水場があって豊富に水が湧いています。農業用水は遠山川から引かれ宿場街の中を豊かな水路が巡ります。この水路は今でも昔からの方法で「井水世話人」という一年毎の持回りで村人によって管理されています。

和田宿の中ほど、東側の急斜面を登ったところに山寺があります。和田宿の裏山のような存在である盛平山の屏風みたいに競り上がった突端の高台にある寺、龍淵寺です。山門へ登る不揃いな石段はとんでもなく急です。バランスを崩さないように気をつけていないと下まで一気に転げ落ちてしまいそうです。
このお寺、南はずれにある諏訪神社とともにたぶん和田宿の信仰の柱なのです。お寺の息子さん、副住職の盛(もり)宣隆さんがとても元気で、たぶん村の行事の中心人物。境内は古いながらもしっかり手入れされた、たぶん結構裕福なかんじのお寺なのです。檀家さんにしっかり支えられているのでしょうね。

この龍淵寺の境内から湧き出る水が「まつもと城下町湧水群」などとともに「平成の名水百選」に選ばれました。「観音霊水」という名前です。盛平山の地下に蓄えられた水量の豊富さを思わせる勢いで滔々と湧き出しています。
「観音霊水」の湧出している地点、龍淵寺の境内に隣接した敷地はかつて和田城があった場所です。和田宿を一望できる見晴らしの良い高台。戦国時代にこの地を治めた豪族・遠山氏の居城があったのです。大阪冬の陣、夏の陣の頃、遠山郷のほか、大河原と鹿塩(つまり大鹿)、福与、部奈から上伊那の赤穂までを領地にするほど隆盛を誇ったという遠山氏は、戦国時代の終焉とともに離散滅亡。この地は幕府の直轄領となり和田城は廃止されました。
お城はやがて潰れてなくなり、17世紀中頃、この高台は朱印地として幕府から龍淵寺へ下付され田圃になりました。
「観音霊水」はもともとこの田圃に引かれた農業用水だったそうです。ミネラル分たっぷりの硬水、味のはっきりしたおいしい水です。こんなおいしい水を田圃に引いていたとは、きっとものすごく美味しいお米が採れていたに違いありません。

十数年前、その田圃に和田城が復元されて郷土資料館になったとき、副住職の盛さんはここに水くみ場を作りました。おいしい水をみんなに飲んでもらおう、ということです。さらに数年前、水質調査によって「カルシウム、マグネシウムが豊富な日本では珍しい硬水」という分析結果が出たことで認知が深まり大人気に。今では毎日あちこちからいろいろな人が水を汲みに来ます。
盛さんをはじめ和田の人々は、この谷間に流れてきた歴史も含めてこの水を大切にしています。遠山氏の居城として和田城がここにあった頃から永々と湧出し続けている、ずっと村人によって守られて来た水です。平成の名水百選に選ばれたことが一過性のイベントで潰えないようにこの水をこの土地の魅力として維持して行くのです。水源である盛平山の環境保全や植林も推進しています。
「井水世話人」という独自の方法を誇りを持って続けている和田の人々です。大丈夫、たぶん。

8月最後の週末。和田宿がにわかに活気づきます。
御射山祭です。
諏訪大社に起源を持つこの祭は信州各地に散らばる諏訪神社で等しく行なわれている夏祭のひとつなのですが、祭礼そのものに「御射山祭」という名称が残っていることがなんだか面白そうなのです。
古来、神事・御射山祭は諏訪大社上社の境外摂社である原村の御射山神社で行なわれていました。諏訪信仰を広める要素のひとつでもあって、各地に御社山、御斎山、三才山などの地名が残っています。
原村なのです。つまり、遠山から地蔵峠を越えて大鹿へ、分杭峠を越えて高遠へ、さらに杖突峠を越えて甲州街道へ抜けたところにあるのが原村の御射山神社なのです。そのままだったら単なる諏訪神社の夏祭であるこの祭に、何か個性的な魅力を備えさせる要素のひとつがこの「御射山」という名前です。
ここには物語がありそうです。
〜つづく〜
(写真と文:宮内俊宏)
2008.08.16更新

古来、善光寺平から飯綱山、戸隠山に至る山岳地帯は多くの修験者や参詣者が集まる同時参詣の回廊。中間地点にある飯綱高原は古くから修験道開祖の地といわれる山岳信仰の聖地でした。
大座法師池はそんな飯綱高原の中央に位置するカラマツ林をたずさえた標高1,030メートルの湖。すり鉢状に囲まれた山々から下りる空気の響きが集まる、今でも神秘性を失わない美しい湖です。
この大座法師池を舞台にした今回のイベントは飯綱高原イヤー実行委員会の主催。長野市の観光キャンペーンとして通年で行なわれるさまざまな行事の一環として発案されたもので、N[エヌ]は実行委員会の意を受けて、この一日のイベントのコンセプトからプラン、セッティング、当日の運営までを実行委員会と恊働して行ないました。
この日の様子は高井さんが雰囲気のよく伝わるレポートをしてくれているので、今回は企画原案を案出した立場からの感想と、このテーマに関する所感を記しておこうと思います。

一番最初にあったテーマが「エコロジー」でした。このあたりの湿地帯はいわば麓に広がる善光寺平の水源地のひとつ。大座法師池をはじめ飯綱高原に点在する湖沼から入り込んだ山ひだを伝って、幾筋もの沢が麓の渓谷を流れる裾花川に注ぎ込み、疎水となって善光寺平を潤してきたのです。
どこも同じですが、山が美しいと水は清らかです。日本列島は山岳が多く、山には豊かな森林が広がっています。日本の水がおいしいのはこの地形的な幸運と気候的な幸運に拠るところが大きいのです。日本の人々は、もっと山や森林について意識的になった方が良いと思います。おいしいお酒を飲むためには山の環境を整えなければいけません。
「エコロジー」といってもいろいろな観点があります。そして、これについて論じようとするととっても長い文章になってしまうので思いっ切りはしょって、今回適用した「エコロジー」の捉え方を簡単に挙げておきます。
「循環型のアイディアであること」
「持続可能なかたちを目指していること」
「自分の手を使って作るものであること」
「消費経済的な文脈で規定されたものではないこと」
「スローガンを唱えるためのものではないこと」
会場を作る資材、竹テントも、テントギャラリーのアートも、グリーン・プログラムも、カフェやお店も、そして湖上ステージの音楽も、今回はこのあたりの感覚に適合したもの、アイディア、人たちに集まっていただきました。

GREEN LAB のテント、ソーラークッカー、グリーン・トークセッション
グリーンプログラムと名づけた部分、いわゆるエコロジカルな活動をしている人たちに参加していただく部分なのですが、今回このグリーンプログラムの基軸を須坂市のGREEN LAB に担っていただきました。
GREEN LAB は、もともとスノーボーダーのチームです。雪山で遊ぶことから山の環境を考え、単に「山をきれいに、地球を大切に」ということではなく、現代社会が組み込まれてしまっている反人間的、反地球的な構造からの離脱を目途した産業の創設を視野に入れて活動しているのです。
具体的には、長野県で採れるカラマツなどの間伐材を利用したスノーボードや木製遊具の企画開発、製造をしながら、夏は農業に携わり冬は雪山を滑走する、森林を中心に農山村で豊かに、地球を磨り減らすようにではなくて、持続的に自然との共生をしながら暮らして行くためのライフスタイルを提案しています。
グリーンプログラムは、このGREEN LAB を軸に、森や林、山のことや農業に関して適切と思える取組みをしている人たちに集まっていただいたわけです。
ごくう会は上田市のグループ。地球環境を保全しながら永続性のある活性土壌を作るための技術を確立しています。「いきいきみどりちゃん」というバクテリアを使い、その土壌とそこに生息する動植物や微生物のことを考えながら、その土地に合った活性土壌の作り方を試行し、元気な土からおいしい野菜を産み出し、それを適正な方法や価格で販売するまでを構築します。それらのプロセスを旧来の市場経済や統制農業のような効率重視の画一的な仕組みではなく、その土地や地域に備わっているものを使って組上げようというコンセプトなのです。あ、有機燃料も作れます。
NICEは、環境、農業、福祉、教育、文化などさまざまな分野でワークキャンプなどのボランティア活動を行うNGOです。長野県内でも清内路村などで継続的にワークキャンプを行なっていて、村の中と外を面白く豊かに繋げる活動をしています。
みどりの市民、市民の森づくり、CLUBSUNDAY、マイ農家クラブ、いろいろな団体が持続可能な循環型の仕組みを、この地球環境の中にセットしようと努力しています。
戦後、経済効率を一義的に追求し、森林を放置し、農地を切り捨て、化学肥料や農薬で土壌を汚し、ゴリ押しの大量生産大量消費を長い間続けて崩壊させてしまった日本の基調文化としての農業や林業を、こういうひとつひとつの取組みによって甦らせることができるかもしれないと思います。

テントギャラリー
テントギャラリーは、数年前に勝山ゆかこさんから聞いた話が元になっています。勝山さんは人間の裸の感覚から絶対に離れない表現を、それこそのたうちまわるようにして続けて来ているアーティストです。絶対美術(という呼び方があるかどうかわかりませんが……)から早い時期に離れ、汎用的な美術の概念ではない作品が増えていった頃、取組んでいたのがテントギャラリー。「散歩してたら突然……」普通の風景の延長線上にアートを置きたい、という発想で始まった勝山さんのテントギャラリーの話でした。
大座法師池周辺に広がるカラマツ林を見た時、その話を思い出したのです。この林の間に地球や時間や自然な人間の姿を感じさせる興味深いアートが点在したらさぞかし……。
けれど、結果的にあまり理想の形に近づけることができませんでした。
テントの配置がいろいろな関係でイメージしていたものとはちょっとずつ違う形になって行き、最終段階、竹テントを現場で組立てるときに四苦八苦、無理矢理ひねりだした配置だったのですが。
追いつきませんでした。
勝山さんをはじめ、本濃さん、小池さん、スイッチマンのおふたり、みなさん、うまく配置できていさえすればそれぞれに機能して、このカラマツ林の中で訪れた人々の想像力を爆発させうる表現を持ち寄ってくださったのですが。
(テントギャラリーの様子は高井さんのレポートをご覧下さい)
今回の失敗は、次にこういうことを企画するときの課題として忘れないように取っておくことにします。
次は必ず。
アートとエコロジーの関係は密接です。あるいは、同じような役割を持ったものでもあります。環境エンジニアにアートディレクションを習得した人が多いのもその表れだと思います。
両方とも人々の生活を豊かにする技術です。両方とも自分の手で作ることを基本に置きます。両方ともお金を追い求めるものではありません。両方とも精神性や誇りを大切にします。両方ともクリエイティヴです。
現代社会が直面している閉塞状態から抜け出すために、このふたつの分野は両輪といえるくらいに重要な要素なのではないかと思ったりしています。

湖上ステージ
午後4時から始まった湖上ステージの音楽は、それぞれ、よくあるジャンル分けで考えるとまず一緒にはならない4組だったと思います。それぞれの音楽の説明は省きますが、とにかく、それぞれバラバラな世界感のライブ・パフォーマンスをしっかりとバインドしていたのは、それぞれが地球の声を聴くことのできるアーティストだという共通素因。表現形態ではなくて表現の根底にある姿勢が通じているのです。

HARCO

Leyona

オギタカ&矢嶋リョウ with 星山剛+種山裕一

白井貴子
白井貴子さんはこのイベントのアンカーでした。イベントのテーマをエコロジーに据えた時、一番最初に発想したのが彼女に参加してもらうことでした。
日本の無個性音楽商品濫造に迎合できず1985年のブレイク直前でロンドンに移住。以降、彼の地で体得したオーガニックな生活を実践しながら自分のペースで個性的な活動を続けている人です。
昨今の流行で「エコ」を口にするアーティストは急増しています。悪いことではありませんが、あ、いや、良いことだとは思いますが、最近のマス媒体で起きている表層雪崩のような「エコ」と同じく、なんか本質が抜け落ちているかんじがして仕方ありません。
今回参加して下さった4組のアーティストは、取組み方はさまざまだけれど、それぞれ自分の生活の中でエコロジーを実践している人たちです。声高にスローガンを唱える人はいません。けれど、自然に、自分の手を使って、地球と仲良しなことを続けている人たちです。わかりにくかろうがなんだろうが、自分の方法で、たぶん別に取沙汰されなくても。

コンサートの終わりには、飯綱高原の婦人会のみなさん手作りの200本のキャンドルが灯されました。植物性廃油を使ったキャンドルです。
カフェ、グリーンマーケットも閉店。大座法師池は夜を迎えます。

今回は「オトナリ飯綱高原」のキャンペーンの一環として行なわれた「GREEN SESSION」でしたが、これは今後継続的に行なわれるべきアイディアではないかとも思っています。
長野市上千歳の「SlowCafeずくなし」が今回のイベントに積極的に関わってくれたことは、おいしいご飯屋さんが勢揃いして来てくれたということ以上に、自然、農業や林業を基調にした自立のためのネットワークが「GREEN SESSION」の推進に力を貸してくれるという大きな意義を生みました。
長野県という豊富な森林資源と高い山に囲まれた地域、水がきれいな冷涼な地域、おいしい農産物が他の地域よりもたくさん生産できる地域では、地球を磨り減らすようにして生きて行くのではなく、地球と一緒に、自然の中で、人間の気持ちを理由にした生活スタイルや産業を構築して行ける可能性は高いはずです。日本という国の状況や行政、政治も大きく影響することかもしれませんが、少なくとも、市民レベルでの認識は高める必要があって、自分のことは自分で、自分の手でいろいろなものごとを創造して行く姿勢を持つことは必ず問われることだと思います。

イベントが終わった翌朝のこと、2日前にみんなの手で組み上げてもう随分愛着の湧いた竹テントをひとつひとつ分解しながら、またふたたびこれを組み上げて、長野県のあちこちの野山をキャラバンして歩いたら楽しいだろうな、という妄想がふっと脳裏をかすめたのでした。
GREEN SESSION。またいつか、どこかで。
(写真:寺澤幸文、宮内俊宏 文:宮内俊宏)
2008.08.13更新

8月9日(土)、飯綱高原・大座法師池にて
「オトナリGREEN SESSION」なるイベントが行われました。
我々N[エヌ]のメンバーは
ライブやテントギャラリーなどの企画・運営スタッフとして参加しました。
イベントにあわせてキャンプを楽しんだコミュニティもあった模様です。
可愛らしく?つつましく?盛り上がった、湖のほとりの一日となりました。

なんと言ってもこのナイスなロケーション!
湖上ステージと芝生の広場を取り囲むように
「カフェ&グリーンマーケット」「テントギャラリー」
などのブースが並び、その背後には涼しい林があります。
ごろんと芝生に寝転んで熟睡しちゃってる人(これ自分)、
木と木の間にハンモックをつるしてうとうとする人、
玄米弁当やら焼トウモロコシをほおばる人など、
気のむくまま、それぞれの時間を過ごしていました。


4組の作家が参加した「テントギャラリー」。
これは本濃研太による段ボール彫刻。
サラリーマン、にわとり男、ねこ、さる、ナマケモノ、
カラス、人間の顔がついているりんごなど
森のなかに人間だか動物だかわからない
愉快なオブジェが並びました。


続いて小池雅久さんの「ドーム」。
竹で半球をつくり
インディアンのドリームキャッチャーみたいに
ひもを編みつけていく。
どんぐりや木の枝もくっついて
種を練り込んだ土のおだんごがぶら下がる。
うまくいけばおだんごから芽が出てくる。
すんなり納得できるというか・・・なんかアースなのです。


勝山ゆかこさんのインスタレーション。
会場の緑な空気に突き刺さる赤の布。
理科の授業?設計図?みたいなものが
ボードにかかれていました。
最近、勝山さんが考えてることなんだろうか・・・
何かを説明しているようなんだけど
「絵」と同じかもなあと思いました。


スイッチマン(宮澤真+結城愛)のタイムレター。
林の中の木に白いポストが設置されました。
ここにはがきを入れます。
専用のはがきには未来の日付がかかれていて
未来の自分にあててメッセージを書きます。
そして・・・
スイッチマンがその日に届くように送ってくれます。
このプロジェクトはずっと続けていて、
現在も60通ほどのはがきを管理しているそうです。

SlowCAFEずくなし(長野市)やポレポレ(大町市)などの名物?カフェ
新鮮野菜を用意してくれた地元のみなさま・・・
豪華キャスト?が勢揃いした飲食ブース

GreenLABのブースにて。カラマツを素材にしたボード

木の実や小枝など森の素材で遊ぶ「わくわくワークショップ」

湖上ステージではトークセッションとライブが行われました。
ライブは、HARCO、LEYONA、オギタカ&矢嶋リョウwith星山剛、白井貴子の順に出演。
日が暮れはじめるとステージに用意していたてづくりのキャンドルに明かりが灯り
イベントのクライマックスにむけて会場の空気がひとつになっていくようでした。
今回のイベントは「飯綱高原イヤー」ということで実現したようですが、
来年もあればいいのになって思いました。
キャンプとかしながら自然の時間で暮らす。
普段の生活スペースでは考えられない
衣・食・住の実験をしたらおもいしろいと思った。
そして、まだ「はじまり」のような、これから「はじまる」ような
はっきりした形のない、ゆるーい雰囲気がよかったんじゃないでしょうか。
ともかく、個人的にはイマジネーションが湧いてくる
イベントでした。
(高井綾子)
2008.08.10更新
村の元気シリーズ〜その4〜

長野県下伊那郡清内路村。
飯田市の南部から木曽谷へ抜ける峠路の登り口にある村です。その清内路峠は木曽谷と伊那谷を結ぶ重要な交通路、御岳山と善光寺を結ぶ修験回廊の一部でもあって、山岳信仰の宿る精神性の高い街道筋にあります。1500メートル前後の山々に囲まれ、「清内路」という美しい三文字の名前と峻烈な歴史を持つ個性的な村なのですが、近年その存在感は薄れ、南信地域でも忘れられがちな村になっているように思います。来年、2009年の春には麓の阿智村と合併することが決まっているそうです。
村の最深部、小黒川沿いに谷筋を分け入った一番奥に、清内路の人々が「おおまき」と呼ぶ大木が立っています。樹齢300年以上、樹高18メートル、幹の太さは7メートルあまりもある大木。国の天然記念物に指定されています。幹の太さはこの種では最大とのこと。そして、大きさもさることながら、その枝振り、幹や葉の色、木の発するエネルギーがとても深い生命感に満ちていて、なんだかカリスマを感じる木なのです。
清内路の人々が精神的な拠りどころにしているこの木は、この村のあらゆる出来事を感じ取りながら、この谷間でその記憶を幹の中に留めて来ているように思います。見上げていると、「大丈夫、大丈夫、まだまだ行けるよ」という声が幹の中から聴こえてくるような気がします。

根元には祠があります。山の神様が宿っているのです。清内路の人々は神の宿るこの木を「おおまき」と愛情を込めて呼んでいるのですが、国指定の天然記念物であることを記した碑には「ミズナラ」と表記されています。
「ここではこの木を小黒川の大まきと呼んでいるが、実はミズナラである。ミズナラはオオナラともいってコナラとともに本邦各地にごく普通にみられるもので……」という解説がなされているわけですが、ここにあるこの木は明らかに「本邦各地にごく普通にみられるミズナラ」とは違うものです。明らかに違った個性を発揮しているのです。
ものごとを数値化し、平均化し、分類し、平易に把握することを目指す近世の科学が捉えた単なるミズナラと、地脈や水脈、歴史をその細胞の中に留めて来ている個性的な生命としての大まきの違いなのですね、きっと。清内路の人たちはこの違いにこだわりがあります。ミズナラと呼ばれるのはちょっとイヤだそうです。
この違い、実はこれからの社会が豊かに幸福に進んで行くためのヒントに結びついているように思います。
「限界集落」という概念があります。この言葉はとある人文学者さんの解釈によって統計上生まれたものなのですが、65歳以上の高齢者が50%を越える集落を指し、共同体として生きてゆくための「限界」を越えた、やがて消滅へと向かう集落と定義づけられています。
確かに、現存する市場経済の視点から考えたら、この状態は市場原理が強く働いて消滅へと向かう共同体であるに違いありません。今までそういう事例はたくさんあったでしょう。その原理に従って廃墟になった街もアメリカ大陸にはたくさんあるようです。
けれど、では何故、たとえば大鹿村には知的な層の外国人や若い世代が移住して来たり、おじいちゃんやおばあちゃんが重い荷物を坂の上まで軽々と運び上げたり、ジャック・ケルアックやゲイリー・シュナイダーといった世界的な文芸人が遊びに来たりするのでしょうか。それは、とても元気で、魅力的で、今から消滅へと向かう村には思えません。
「限界集落」という概念は、そこにある状況を数値としてしか捉えません。そこに居る一人ひとりの個性、その土地の持っている個性のことを把握する能力はないのです。あ、これは「限界集落」という定義を否定するものではありません。そういう絶対科学的な概念では理解できない、その地域の存在理由、人が住んだり集まったりする理由があって、そういう数値化できない感性に関わる部分を認識しなければ社会は一向に豊かにならない、ということなのです。人間は感性によって存在しているのです。

清内路村はかつて煙草の栽培と炭焼きで潤い、農業と林業で自立しながら四季折々の祭を守り、歴史を守り、地脈や水脈に素直に従う自然で豊かな暮らしがありました。そして、その生活は「出づくり」という文化によって支えられていました。農繁期に畑の近くに移住する習慣です。
普段人々が居住している低地は急峻な斜面ばかりで農耕に適した土地がありません。むしろ山頂近くや谷筋の奥の方が平地が多いため、養蚕や煙草の栽培、畑をつくる春から秋までの農繁期は山腹にある別の家に移り住んで、そこで生活しながら畑仕事をするのです。子供たちもそこから山を下って学校へ通います。これが「出づくり」という農耕の技術、清内路の人々のやりかた、つまり文化でした。
今では「出づくり」の集落のほぼすべてが廃墟になっています。この村から「出づくり」が消滅して行った経緯は、利己的市場経済があちこちに不幸をまき散らしながら地球上を占拠して行った歴史と重なります。特に戦後の日本において統制を強めた自由主義経済、消費を基軸にして成立する非創造的な、自由なんてうそっぱちの経済が社会を変質させて、やがて文化や精神性や誇りよりもお金を拠りどころとする風潮が国内に蔓延していったとき、この村の人々は農業や林業をやめてサラリーマンになっていったのです。

1960年代、農業や林業は前近代的で貧しいものだという宣伝が社会のあらゆる階層で大々的に行なわれました。自分の手で何もしない便利な生活が豊かで楽しく、それを手に入れるためにはお金が必要で、お金を安定的に手にするために個を滅して生涯にわたる忠誠を会社に誓う、いわゆるサラリーマン化が国家的な規模で奨励された時代でした。サラリーマン化はよく見ると秘密結社化に似ています。
これは結局、お金を動かすことによって利潤を得る一部の金貸したちの全世界的な施策に国家が相乗りした結果だと思うのですが、ともかく、日本の社会は総動員体制でお金を追い求め、効率を求め、他人の財布から掠め取るように利益を上げることが賞賛されるという野蛮な状態に陥りました。文化や歴史、人と人の繋がり、家族の繋がり、世代間の交流や地域の交流、人間としての尊厳や誇りなど、社会を重層的に豊かにするための技術をどんどん排除して進んで来たのです。
それまで自立して豊かに暮らして来た山間農地は、不便で暗く、余暇もなく貧しい暮らしをする場所として宣伝されました。無自覚に情報を垂れ流す日本のテレビメディアによってそのイメージは大量に頒布され、更にアメリカの圧力に屈した政治行政によって農地は不要とされ日本の国土からどんどん姿を消して行きました。その中で農業が生き残って行くためには、平均化された全国的な組織の中で統制された個性のない産業に変質するしかありません。大型機械や農薬に頼って大量生産と安定供給だけを目指す活力のない産業です。
おそらく、清内路村のように地理的に個性の強い地域は効率が悪く、統制にそぐわないだろうと思います。しかるに農地や森林を捨ててサラリーマンになることが、清内路村では唯一に近い選択肢になってしまったのではないでしょうか。
清内路村の山林はどんどん荒れ、山間に開拓された農地は放置され、与えられる利便性が社会の常識になり、利便性が充分に届かない村に耐えられない人は出て行きました。清内路村の個性、存在理由となっていた要素は次々と消滅し、経営資源を失った地域の産業は衰退して、財政もままならない過疎の村となって行ったのです。

平成16年、「これはいくらなんでもおかしいぞ」と感じた清内路の人たちは、村役場に行って村の現状を詰問しました。そこで判明したのが逼迫した村の財政です。「村になんとかしろと言ってももう無理なんだ」ということを、清内路の人たちは自分の目で確認したのです。
最初は当然、大混乱。どうしたら良いのか、清内路の人たちは途方に暮れました。自分の住んでいる地域の財政が崩壊しているのです。行政サービスの多くが機能しません。財政を再建できるようなお金はどこにもありません。旧来の方法、産業を誘致したり、工場を誘致したり、無理矢理何かを引っ張って来て設置する方法は不可能です。地域産業は消滅してしまっているので、それを手掛りに新しい産業を創成することもできません。そんなときに住民はどうしたら良いのかなんて、清内路村に限らず、誰にもわかるはずはありません。
何度も寄り合って話し合った結果、直接打開するアイディアなど出ない中で、とにかく自分たちのことなんだから自分たちでなんとかするんだ、という意識が自然に盛り上がって来たそうです。
そこから、清内路の人々の闘いが始まりました。自分の住む場所、清内路がどんな歴史を持ち、かつてどのように暮らし、どのような性質、個性があり、何を大切に生きて行くべきかを考え始めたのです。その過程で浮かび上がって来たのが、古来からの伝承、歴史の物語であり、戦後の高度経済成長期に起きた出来事に対する評価であり、大まきに宿る清内路の精神性、誇りだったのです。
「温故知新」という言葉があります。歴史を無視しては未来なんてありえません。良いことも悪いこともすべて詳らかに水平に認識していないと適切なアイディアは生まれません。清内路の人たちは、戦後の日本の社会が放棄してしまった大切なものをもう一度思い出すことから始めたのでした。

いま、清内路村の村役場に行くと、玄関に「自分のことは自分でする」というスローガンが大きく掲げられています。経済状態の改善は間に合わなくて、来年の春には阿智村と合併することになったのだと思います。行政区分としての清内路村は消滅します。
けれど、自分たちの歴史や文化を再認識し、自分たちの方法を取り戻そうとし始めた清内路は、吸収合併されたとしても、自立した地域に戻るための力を取り返せる可能性は高いと思います。
現在、清内路では面白い試みがいろいろと始まっています。「出づくり」の廃屋を利用して宿泊しながら都会の若者が農山村の生活を体験したり、週末にはそこでDJパーティーが開かれておじいちゃんやおばあちゃんが一緒に踊り明かしたり、落雷で折れた大まきの枝でコカリナを作ったり、自分たちの力だけで音楽会を定期開催したり、いろいろなことが始まっています。
その楽しそうな様子については、また今度、その(2)でお伝えします。
(写真、文:宮内俊宏)
2008.08.08更新
8月3日、篠ノ井の「丸十温泉」という銭湯で、地元ミュージシャンによる
ライブイベントが行われました。
丸十温泉はこの夏いっぱいで現建物を取り壊して改装工事をする
ということが決まっていて、その記念というかなんというか・・・、
いろんな人の念願かなって最初で最後のサヨナラライブが実現したのです。
ちょっと楽しすぎてあまり客観的なレポートでは無いのですが
今回も写真を中心に、というかんじで・・・。

「一人きりでお風呂に入って鼻唄なんかうたってみたりするんですけど、それがすごくきもちいいんですよね〜」と店主、久保田さんのあいさつ。
普段銭湯を利用してる人も、初めてこの場所に来た人も、銭湯を営業してる人も、
おとこもおんなも、大人もこどもも、みんな(服着てます、一応)で、
日常のなかの非日常+音楽+人々=幸せ を共有。
その共有している事を実感して、また幸せというかんじで、
興奮としみじみとした感情が入り交じって成り立っているように思いました。
出演したアーティストは、地元で活動する(高校生から30代後半くらいの)ミュージシャン達。電気的な機材も持ち込んでいたけど、銭湯ならではの響きを楽しみながら半アコースティック形態で演奏をしました。
ボスダブ


チョコレートタウンオーケストラ

ザ・ビアーズ


丸十温泉は、ずっと木のチップでお湯をわかしていたそうです。
(改築後はガスでわかすようにするみたい。)
ということで、窯場と煙突。

昼間にはじまったイベントも気づけば涼しい風がふく夕方になり、
イベントが終わっても余韻さめやらぬ人々の音楽が、ご近所になり響いていたのでした。
かぽーん。

(写真、文章:おおさわなつみ)
2008.08.06更新
夏っ!!
というわけで、人生初(ちがうか・・・近所以外は初って事で。)の野外ライブイベントに行ってきました。
今回で7年目となる上田JOINT(2002年にジャズフェスとして上田駅前で始まり、UEDA JOINTとなったのは2006年から)、3日間で50組以上のアーティストが出演。なのに入場無料。そして会場は上田城!音楽ライブ以外にも、ライブペインティング、LIGHT SHOW、民族楽器やヨーガのワークショップなんかもやっていて超!盛りだくさんなイベントなのです。
私は全3日中1日目の8/1、昼間に行ってきました。
写真を中心にレーポートします。
まずはメインのライブステージ。

毎日夜の8時くらいまで5組くらいのライブパフォーマンスがあり、
この日の昼間は人がぎゅうぎゅうという感じではなくて、みんな自由に踊り狂ったり
座ってビールを飲みながらピクニック気分で楽しんだりしていました。
とにかく、天気がよい!輝くビール!夏っバンザイ!というかんじで。


酔っぱらってる人も、しらふの人も、大人も子供も、おとこもおんなも、
青空の下で思い思いに楽しんでいる、幸福。

ライブペインティングの様子。アーティスト:Gravity Free
3時頃から描き始めたこのくねくねが・・・
↓
↓
↓
↓

6時頃には、こんなことに。
完成まで見られなかったのが(私が帰ってしまったので)残念。
食べ物だけではなくて、雑貨や洋服の出店がたくさん出ていました。
一番手前は浴衣を売っている店。
それにしてもおしゃれなが人多い。

ライブ会場と、ほかの会場の途中でガラス作家のテントを発見。

Kaoli:ガラス屋。2005年より長野県にて制作活動を開始。
立体作品や日常の器の制作と平行し、カフェ・クラブ・野外イベントなどで器や灯りの提供他、インスタレーションなどを行っている。
ガラスを様々な場所へ置くことで、音・光・温度を感じ、そこに集まる人たちの会話や空間が広がるきっかけを展開しながら、“sollaripple”をコンセプトにガラスのもつ可能性を求めて活動中。
(上田ジョイントHPより)

光るところを見られなかったのはやっぱり残念・・・。
メインの会場以外に、「ゲル」「本丸」という会場があって、そこでもDJやライブが行われていました。

ここは「本丸」。ライブの間のDJタイムでゴキゲンな人々。

「ゲル」って書いてあって、本体は全然見えないんだけれど森の中から低音が響いてくる。
ちょっとびびりながら中に進むと・・・

こんな感じでした。
ここは暗くなってからVJが入ったりして盛り上がるんだろうな。
すごく気持ちよくなって帰ってきて、ジョイントのHPを見たら、夕方からはじまることもたくさんあったみたいです。
そんなわけでいろいろ見逃している感じなので、また来年、行きます!
(写真、文章:おおさわなつみ)
2008.08.05更新


今年の春から始まったN主催のマラソン的継続イベント、「N-ex Talking Over」。
長野市、松本市、上田市、飯田市のカフェで、月に一回テーマに沿ったフリートークをやろうよ!という企画で(注:各地域ごとに月に一回開催しているので、つまり月に四回やってる事になります)、テーマは例えば「人の住む街、街は人が創るのです」とか、「感性工学って何だろう?」「古来、文化は生活のためのエンジンでした」といった感じ。街との向き合い方から街づくりまでをざっくばらんに考えよう!というミーティングなんですね。
誰でも参加できるこのイベントの、長野市の平安堂カフェぺえじで7月23日に行われた回に、何と鷲沢正一長野市長ご本人が参加されました。長野市の「みどりの移動市長室」という企画の一環とのことですが、特に事前に告知があったわけではないので、同席した人たち(約20人)はみな驚きを隠せない様子。カフェに話に出かけたら市長と直接話す羽目になった!ってな感じですから、そりゃびっくりしますよね。
この日のテーマは「善光寺平の物語を創造する」。春から数ヶ月かけて「長野市を面白くする、楽しむためにはどうしたらいいんだろう」という事を話してきたところ、「土地が持っている物語(歴史的な事実や、今ここで起きている面白いこと)に注目すればいいんだ」というような結論を得たので、その総括をしてみよう…といった感じの流れで話は進みました。
「街がもっとこうなったらいいのに」とか「長野の街はここがマズイ」「ここが素晴らしい」「こうすれば若者が増えるのではないか」といった話がいくつも出たのですが、ある意味机上の空論や理想論で終わりがちな話題も、市長を交えて話すととても具体的かつ現実的な問題として捉えられたのが新鮮でした。例えば「若者が少ない街には文化は育ちにくいのでは」と誰かが言うと、市長がさっと「実際に20歳前後の人口が特に少ない」「対策として県短大の四年生化を実現したいと思っている」といった話をされて、それにまた誰かが「卒業後の就職まで考えておかないと意味がないですよね」と意見を出す…という感じ。
市長に対する公開質問ではなく、円卓を囲んで緩い会話をしているという状況がよかったのか、善光寺の歴史から“限界集落”問題への取り組みまで幅広い話が出来て、とても密度の濃い時間を過ごすことが出来ました。
余談ですが、市長が幼少時代を過ごされたのは善光寺のすぐ近くである西之門町で、市長が住んでおられた家の一軒横の民家が「ナノグラフィカ」と名付けた今の自分たちの事務所なんですね。そのせいか、鷲沢市長の善光寺への想いが良く理解できる(つまり長野市を長野市たらしめているような重要な施設だけど、同時に単なる近所のお寺である感…とでも言いましょうか)気がして面白かったです。
(文:清水隆史)
2008.08.02更新

まもなく!飯綱高原のまんなか、大座法師池の湖畔でN[エヌ]共催のイベントが開催されます。
2008 オトナリ GREEN SESSION 「湖上の歌、地球の声」
8月9日(土曜日)入場無料・雨天開催
■湖上ステージ
白井貴子、HARCO、Leyona、オギタカ&矢嶋リョウ with 星山剛+種山裕一
■グリーンフィールド
◇テントギャラリー
小池雅久、本濃研太、スイッチマン(宮澤真+結城愛)、勝山ゆかこ
◇グリーンプログラム
GreenLAB(わくわくワークショップ開催)、ごくう会(上田市自然環境対策支援プロジェクト)、
NICE(長野ナイスプロジェクト)、みどりの市民
◇カフェ&グリーンマーケット
「SlowCafeずくなし」を中心に、エコロジカルな活動に共鳴する飲食店、クラフトショップ、
飯綱高原で収穫された農産物、手作りキャンドル、いろいろなお店がならびます。
◇そのほか
「まぐさんの絵本読み聞かせ」など、何かが突然……。
◇◆◇◆◇
エコロジー、自然環境の保全と発展に視座を置いた音楽とアートのイベントです。湖上ステージでの音楽ライブ、湖畔のフィールドにはテントギャラリーやカフェ、飯綱の朝摘み野菜やとうもろこし、いろいろな農産物のマーケット、持続型、循環型の地球環境を試みるグループの楽しいワークショップや提案ブースなどが並びます。
湖上ステージに登場するアーティストは、いずれも本当にエコロジカルなアイディアを実践している4アーティスト。流行でスローガンを唱えているだけの人たちとはひと味もふた味も違います。

白井貴子さんは、おそらく一番最初にエコロジーを日本に持ち込んだアーティストだと思います。坂本龍一さんたちよりもずっと前でした。1980年初頭にデビュー当時、既に無個性音楽商品濫造の傾向を強めていた音楽業界に迎合できず、いわゆるブレイク直前で白井さんはイングランドに出奔しています。そこで体得したのがオーガニックな生活スタイルです。1990年に帰国してからはずっとその実践をしながら、マイペースで活動を続けています。「エコロジー対消費経済」「人間対利己経済」という両方の観点で、この「GREEN SESSION」の象徴的な存在です。
HARCOの青木さんは、奥さんからオーガニックなアイディアを受取ったのですが、この人も、こうと思ったら突き進む人で、先日、渋谷DUOで行なわれたライブは本格的なエコロジーのワークショップと音楽ライブの2段重ね。わかりにくかろうが何だろうが、やることはやる人なのですね。ライブ・アーティストにとって身近なテーマでエコロジーを呼びかけたり、オーガニックコットンで糸を紡いだり、楽しそうにエコロジカルな認識を積み重ねています。今回は奥さんのQuinkaさんとお二人での登場。
Leyonaさんは特にエコロジカルな主張や活動をしている方ではありません。きわめて自然に、オーガニックな生活スタイルを実践している人です。もともとサーフィンの方面から自然的な思考に近づいて行って、難しいことを考えるまでもなくそこにいるアーティストです。そんな感じが、地球と仲の良い感じが、歌声やライブパフォーマンスの姿に自然に滲み出して来ます。
オギタカさんも同じように、自然にそこにいるアーティストです。自然な人間の姿で音楽を実践して来た結果、自然に、長野県の小諸市に住んで、自然に、大地のグルーブや響きを持つ楽器を使って、自然に、無理のない循環型のスタイルを持つ人々と結びついて、そんな中から生まれて来たアイディアを自分の手の届く範囲から自分のやり方で広めて行っています。
それぞれの形で地球と結びついている4組のライブ・パフォーマンス。湖上にせり出した舞台で演奏される音楽が周辺の山々から下りて来る空気の音と響き合って、気持ちよい夕方になってくれるはずです。
そして、舞台の前、湖畔では、カラマツ林の間にいくつもの竹テントが立ち並びます。その中に数軒、地球を感じさせるアートを展示したテントギャラリーが混ざります。

テントギャラリーという発想は、長野市在住のアーティスト・勝山ゆかこさんから2年前に聞いたアイディアが原点になっています。
勝山さんは「アートがどういう形でこの世に存在して欲しいか」ということを肌感覚で考えているアーティストです。利己的な消費経済に塗り固められた世界の居心地の悪さに直面しながら、人々が無理することなく少し幸せに生きて行くための理念みたいなアイディアを表現し続けています。そのアイディアを持ってから、彼女はテントギャラリーを開催するようになりました。なんでもない日常的な風景の延長線上にぽつんと出現するアート。
小池雅久さんは、たまたま住みついた東京の郊外都市・国立市に借りた一軒家を「プランターコテッジ」にしています。「自分の手を使って作る」ということから人々が離れるようになって、この社会は生きにくくなったように思います。エコロジカルな視点で考えても、自分の手でものを作ろうとしない社会が進展しないことは明らかです。小池さんのアイディアは「地球環境」という方向からではなくてもっと原初的な人間感覚の方向から始まっていると思いますが、エコロジーと同じことに結びつきそうです。

本濃研太さんの作るダンボールの生き物たちは、いつもとてもエネルギーを放っています。どいつもこいつもデフォルメされて変な形をしています。人間ひとりひとりが、ニワトリ一羽一羽が、猿の一匹一匹が、みんな歪んでて不揃いなのです。そんなニワトリが群れをなして行進してくるさまは、ものすごくわくわくします。飯綱高原にはどんな生き物がやって来るのでしょう。できれば雨が降らないで欲しい。なんたってやつらはダンボールなのです。
そして、スイッチマンのふたりがいったい飯綱高原で何をやってくれるのか、とても楽しみです。何をしでかすのか皆目わからないアート・ユニットなのです。
スイッチマン、そして、宮澤真さんと結城愛さんが個々で表現して来たことを眺めてみると、まずは「?」マークが浮かぶはずです。けしてそんなに難しいことを表現しているのではありません。でも「え?」というところから始まります。既成概念への心地よい挑戦といったところでしょうか。スイッチマンのそれは、とてもポップなかわいいタッチで始まります。

◇◆◇◆◇
今年に入って、とくに夏が近づいて、急激にエコロジーという言葉が連呼されるようになりました。このイベントがエコロジーをテーマにすることは以前から決まっていたのですが、テレビから大量に流れて来る「エコ」のオンパレードに晒されているうちに、単に「エコロジー」という概念を持つだけでは先に進めなくなりそうな気分になって来ました。
テレビで放射される「エコロジー」が悪いわけではありませんが、その本質が何なのかということを、またもや置き去りにしているように思えたのです。
このイベントではことさらに、「循環型」「持続的」であることを目指すアイディアを取り上げるようにしました。消費して終わる、消費してゴミを出して終わる、消費して地球を磨り減らすように暮らすことをやめて、あらゆる循環を持続的に確保することを目指すアイディアです。消費経済にほぼ完全に毒されてしまっている僕達はなかなか信憑性を感じることができないアイディアなのですが、よく考えてみると、そんなに遠くない時代、日本はそういう仕組みで成立していたのです。
そして、エコロジーの基礎は「自分の手を使ってものを作る」ことです。自分の手を使って作ろうとしない社会では、どんなにテレビでプロパガンダしてもエコロジカルなアイディアは機能しません。

須坂市に本拠地を置くGREEN LAB は、まさにそういうコンセプトを持っているチームです。長野県という森林県に暮らすためのライフスタイルを構築し、それを持続していくための産業を創出しようとしています。スノーボードを中心に間伐による森林の整備と木材の利用促進を進めているのです。木材のことだけではなくライフスタイルそのものを視野に入れているので、日常的な生活、食べることや遊ぶこともちゃんと考えています。
上田市からは「ごくう会」。地球環境に優しく、永続性のある活性土壌を作るための農業生産技術を30年間研究して来ているプロジェクトです。化学肥料や農薬、大型農業機械のために荒廃しきってしまった農地の土壌をもう一度生き返らせる。循環型社会に良質な食料や燃料を供給するために重要な概念、技術ではないでしょうか。土壌を活性化するためのバクテリアを培養して、その土地に合った方法で活性化し、おいしい健康な野菜を作って、それを独自の方法で販売するのです。きっと、瀕死の農業を甦らせてくれるプロジェクトです。
NICEの存在を知ったのは清内路村でのことでした。清内路村がかつて豊かに自立していた時代、夏のあいだ農作業のために山の上の方に居住する「出づくり」という生活がこの村の習慣でした。そのときの集落が今は廃墟になっているのですが、清内路村では去年の夏から、その出づくり集落を利用していろいろなワークショップを開いたり、オールナイトのDJパーティーを開いたり、村外の若者と村の人々が一緒になって面白いことをやり始めたのです。それを仕掛けているのがNICEというボランティア団体でした。ここは、社会が利己的な統制経済から自立して豊かになって行くためのヒントを持っているプロジェクトかもしれません。
そして、飯綱山で携帯トイレの普及活動や登山道の整備などに取組んでいるみどりの市民。地球環境を考えるときに、地球規模でものごとを考えなければならないのは当然ですが、アイディアを実践するときは地域です。地域、自分の手の届く範囲から、とにかく自分の手を使ってできることを持続的にやっていくこと。このことなしには地球環境はどうにもならないのです。みどりの市民は、環境教育と人材育成、ゴミの資源化、省エネルギー、身近にあるテーマからエコロジーに取組んでいるプロジェクトです。

いろいろな分野から集まって来るいろいろな要素。アートだったり、テクノロジーだったり、アイディアだったり、クラフトだったり、歌だったり、食べることだったり、農業や林業だったり。けれど、これらすべて根源は一緒だったりします。人々が少しずつ幸せに、少しずつ豊かに生活して行くための技術。そのことを古来から「アート」と呼んでいたりするのですね。
「SlowCafeずくなし」とそのチームによるおいしいご飯や、飯綱のおいしいトウモロコシや、いろいろないい匂いに包まれながら、空気がおいしいことの幸福感をいっぱい風にはらませて、楽しい夏の一日になってくれたらいいな、と思っています。
みなさん、是非お越し下さいね。
(宮内俊宏)