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2008.09.29更新

上田の染織産業は下火になって行く市場を前にいろいろな模索を続けてきています。信州の養蚕、染織産業の歴史を繙き、かつて魅力的な産物としてこの地域の推進力になっていた紬織物の存在感を、なんとか現代に呼び戻そうと努力を続けて来ているのです。
上田市常田にある上田紬の製造販売元・藤本の跡を引き継いでいる若い当主・佐藤元政さんは、この産業を持続させて行くためのアイディアを求めていろいろなトライをしています。一般に向けた工房の見学や本格的な手織り機での織物体験を呼びかけているのもそうしたアクションのひとつです。
佐藤さんにお話を伺いながら工房を訪ねてみました。
藤本つむぎ工房の所在地である常田という界隈は、上田駅前から真田坂を上がって松尾町あたりを右に折れて行くとあります。いわゆる中心市街地や繁華街を東に出はずれたあたり、信州大学繊維学部の少し北側です。静かな住宅街で古い家並みもそこかしこに見られ、昔からの道筋に従って少し迷路のような自然な景観の街路が巡っている魅力的な土地です。

ひときわ惹かれるのが毘沙門堂。常田の真ん中あたりの辻にあるこのお堂の佇まいは、温かくて強いエネルギーを孕んでいるように感じます。
気になって調べてみると、やっぱり。ここはとても大きな人の智慧が巡り巡った場所だったのです。
江戸中期、日本の豊かな文化が撩乱した文政12年(1829年)ころ、このお堂の脇に活文禅師という学識豊かで高名なお坊さんが寺子屋を開き、武士、農民、商人、大人から子供まで大勢の人が教えを受けたのです。佐久間象山、赤松小三郎、高井鴻山などがこの寺子屋を出ているということなので、いわば幕末維新の学府であった上田の基点ともいうべき場所なわけです。
むかし、上田ってすごかったんですよ、みなさん。新しい日本を良い方へ進めようと思った志士が全国から集まっていた土地だったのです。その基点です。この毘沙門堂にはすごいポジティヴなエネルギーが貯まっているのですね、きっと。
その毘沙門堂の脇の路地を入って行ったところに「藤本つむぎ工房」はあります。門を入ると右手に2階建ての大きな建物があります。1階に製品を陳列したショールームと手織機や糸繰機の並んだ工房があります。2階の広いフロアは今では使われていません。
上田紬の興りは戦国時代まで遡ります。真田氏の開祖・真田昌幸(真田幸村のお父さんです)が上田の産業振興のために「真田織」という織物を奨励したことから始まっているようです。まだ養蚕が盛んになる以前のことです。それがやがて真綿から紡いだ糸を原料にした紬の織物に進展し、養蚕の隆盛や真田父子の活躍とともに全国に広まって行きました。
江戸時代初期、茨城県結城地方の代官となった伊奈忠次という人に招聘されて上田から大勢の染織技術者が彼の地へ赴いた時代があります。当時、上田の染織技術は洗練された先進技術として全国的に認知されていて、その技術をもって結城地方の染織産業の振興に大きな役割を果たしたわけです。結城紬が全国的なブランドになった基礎には上田から輸出された技術があったわけですね。当時の上田は最先端だったのです。

「糸をつくり柄を案じ、色を草木で染め、わが手で織り上げる作品には "たましい" がはいる。」信州紬を讃えた染織美術家・柳悦孝の言葉(*上田紬織物協同組合編・冊子「上田紬」より)です。日本の社会が失ってしまった芸術的な事物に対する重要で基礎的な概念です。この魂が上田の紬にはあったのです。
山の斜面に桑を植え、「蚕」という生物を「おかいこさま」と呼んで大切に育て、自然から編み出される技術によってすべてを自分の手で作り上げる。一本一本の糸を紡いで、染めて、織り上げるのはとんでもなく大変な重労働だと思います。それでもなおあまりある美への理念と創造へ向かう逞しい力が紬を織り上げてきたのです。
上田紬の最大の魅力はこの真綿を手でたぐって撚るところから生まれていました。わら灰汁で煮て精錬された繭から真綿を作り、その真綿を引き延ばしながら指先で縒りをかけることによって紬のふっくらとした独特な質感が生まれるのです。鍛錬された人の手による手引紬ぎの具合によって織物の風合いはさまざまに変わり、深みのある個性的な産物として魅力を放っていたのです。
そうやって紡いだ糸を、信州の山野にあふれる草木と媒染剤から抽出される天然染料で染色して、経糸、緯糸ができあがります。
とても手間のかかる、しかも無限に可変性のある技術ですが、それこそが上田紬の魅力を生み出していた方法、上田紬の流儀だったのではないかと思います。
残念ながら、今、生糸の生産は中国など他国で行なわれているようです。国内ではほとんど糸は生産されていません。かつて日本を代表する産物だった生糸が日本でほとんど作られておらず、特に産業用に供給される糸は完全に輸入されている状態。上田でも糸の紡ぎ手はたったひとり。そのおばあちゃんも間もなく引退してしまう、ということを聞いたことがあります。
その経緯と同調するようにして需要が萎縮して行った染織産業。
それがダイレクトな因果関係だとは思いませんが、効率や利潤ばかりを指標として「自分の手で作る」ことを放棄して来た日本の社会が結果的に辿り着いた状況のひとつである、ということは言えるかもしれません。あの手この手でお金に換えることばかりを追求して来た日本の社会が失ってしまった自分たちの流儀。自分たちの魅力の根本的な素因であった自分たちの流儀。自分たちの流儀を失った社会はアイデンティティーを失い、やがて基幹となる産業も流出して自立できなくなります。
批判としてではなく、戦後の統制経済の中で上田紬に起きてしまった事実として、そういう経緯があったのではないかとも思うのです。そんな経済性一辺倒の社会の中では、桑を、蚕を育て続けることなどできなかったし、糸を紡ぎ出すことはできなかった。

そういうわけで、輸入した糸を染色し、工房では糸の束から経糸を取る「整経」というプロセスから始まります。
佐藤さんが順番に説明してくださいました。
糸繰機。反物を作るのに必要ないろいろな糸を、所要する長さに切ってボビンに巻き取ります。そうしてできたボビンを経糸の並び番に並べて反物を作るのです。
糸巻機。工房の中でひときわでっかい機械です。反物の横巾分の経糸を整えて巻き取って行きます。横巾を作るのに必要な経糸の本数は数百本から千本あまり。それぞれの経糸が上下に開いた間を緯糸が通って織り込まれることになるので、その数百本の経糸は一糸乱れず緻密に、正確に並んでいなければなりません。これらの機械はけしてコンピューター制御のオートマティックではありません。あくまでも人間の身につけた技によって為される工程なのです。やっぱり、気の遠くなるような念入りな作業なのですね。

織物を織るための設計表です。これをもとに、どんな色のどんな糸を、どのくらいの長さ、どんな順番で横幅に並べるのか、どんな色のどんな緯糸が、どんな順番でどんな経糸の並び方の間に入ってくるのか、ということを決めて行きます。
やはり、気の遠くなるような緻密さです。
そして、織り。

踏木を踏んで経糸を開き、杼を投げ入れて反対側で受け止め、踏み木を踏んで経糸を閉じながら筬を打ちます。
力加減ひとつで布の風合いが変わります。強く打てば堅く締まり、弱く打てば柔らかく、いろいろな風合いに変わるわけですが、少なくとも一枚の布を織る間はそれが一定でなければなりません。長い布を織るときには数週間、一定の力加減で織り続けなければならないのです。メンタルもフィジカルも、一枚の布を織る間は布に影響が出ないようにコントロールされなければなりません。

今、藤本で手織りをしている職人さんは2人。この技術を継承していくことの大変さが窺えます。作業工程の苦しさを創造の喜びや美的な熱量に昇華できる感性と動機を持った人でなければ、この仕事に従事することはできない。イメージに近づくための技術の鍛錬を続けて、感性と体が高い水準で一致していなければ質の高い織物になはらない。さらに、そうやって織り上げた反物を製品にして販売し、利益にしていくコンセプトや仕組みを構築していかなければ利益は生まれない。利益は創造を支えて進んで行くための原動力に変換されるのです。
染織は生活文化、アートの領域にある産業です。できれば、作る人やその地方の歴史風土を色濃く反映した個性的な産物を多く生む産業であってほしいと思います。創造性と経済性はいつもせめぎあいます。特にお金の機能が間違ってしまった現代の社会では、それはとても困難な所業になります。
できれば、お金に感性を取り戻させるような施策の中から上田紬の次の一手がみつかると、染織がこの地域の魅力的な産業に戻れる可能性があると思います。
現在、藤本つむぎ工房の主な出荷先である東京や京都では、サブカルチュアの分野にいる若いオピニオンリーダーが着物の世界に踏み込んで来ていたり、大学生や若い女性を中心に着物を現代の服装と共存させるアレンジやコーディネイトが盛んに行なわれていたり、着物業界がそれに協調していたり、着物の世界の越境性や寛容性が高まって来ているのが明らかに感じられます。
一方、布を使った表現をする優秀な工芸作家が長野県内には多く存在していて、それぞれ個性的で秀逸な作品を作り続けていたり、上田紬の中にも作家性の高い作品が出現しています。
1980年ころには35軒あった上田紬織物協同組合の組合員数も今では14軒。半分以下というスリムな状態は特化するのに適した状態かもしれません。

藤本つむぎ工房では、着物以外にいろいろな製品を展開しています。ネクタイやワイシャツ、ジャケット、ストールやマフラー、帽子、カバンや人形などの小物まで、上田紬を使ったいろいろな製品、布地や糸の切売りもあります。
着物そのものを含めたこれらの商品展開にもう一度、この街ならではのコンセプトを与え、長野県内のクラフト作家、デザイナーと協同して製品のラインナップを整えなおしたり、隣接する分野の表現や伝統工芸とリンクしたり、新しい上田紬観を醸成するためにいろいろなことが考えられると思います。

統計や数値変換しかできない旧来のマーケティングの手法では、染織のような文化産業の新しい方法を見つけるのは不可能です。産業は本来、その地域の歴史風土、地域の流儀を携えたものでした。旧来のマーケティングは、ひたすら東京を志向した統制経済、消費経済の中で個性を排除しながら出来上がったものだからです。
では、どうしたら良いのか。
旧来のマーケティングに代わる方法はまだありません。今までまったく顧みられなかった方法だったりします。明らかなのは、人間の感性、本当の歴史や文化、その土地の個性やそこに住んでいる人たちの個性のことを踏まえた方法でないと、新しい方法は見つからないということです。
「地域の流儀」。
これは、その産業に携わる人たちだけが考えれば良いことではありません。その地域全体で、その地域全体が最適になることを目指して考えて行かなければならないことなのだと思います。

(写真、文:宮内俊宏)
小川原さん、ご一緒くださってありがとうございました!
私たち、日本の社会は、産業と地域が密接であることを忘れて進んで来てしまいました。
けど、まだまだ間に合います。
まだまだ行ける。
藤本を巡るアートディレクションの再構築、具体的に進めたいですね。
是非一緒にやりましょう。
初めて、コメントします。
まつもとクラフトフェアに携わっている、みさっぺと申します。
貴重な情報、ありがとうございました。
休日はなるべく着物で生活するように心がけていますが、ほとんどが祖母の若い頃の銘仙・紬です。
呉服屋さんが怖くて入れず(笑)、自分で誂えた着物と帯は、すべて灰月(店主の方がとても信頼できるので)というギャラリーで、です。
上田紬は、以前は大島・結城に続く日本3大紬だったと聞きます。
私は、普段の生活の中にその地域のもの人の手が作ったものを使いたいと思っていますので、せっかく紬を誂えるなら、信州紬を…とずっと思っていました。
有明天蚕紬は普段に使えるものではありませんし、松本紬はずっと「ほんごう」さんで縁があればと思っているところでした。
上田紬を探しに上田に出向いたことがあるのですが(私は松本に住んでいます)、何のつても無く行った私もいけなかったのですが、「今は、あんまりやってないね。」という話ばかりで、これ、と言う反物に巡り合えずに帰ってきました。
上田に行くことができればこちらの工房を訪ねてみたいと思います。
はじめまして。
東京・神楽坂在住の呉服好きのものです。
現在の目標は日本の伝統文化、なかでも呉服の文化を盛り上げ継承ていく一助となりたいと強く思っています。
上田紬の素晴らしさを知りたく、いろいろなサイトで紬を勉強していたらこちらに辿り着きました。
歴史背景~現在の状況に至るまでの詳細な説明が大変勉強になりました。ありがとうございます。
昔の書籍を紐解くと、
結城紬につづき上田紬は上品である。
と書いてあったり、上田紬の質・価値の高さを知ることができます。
私もいつか上田市に行ってみたいです!
昔、上田に疎開していました。母たちが気軽に着ていた紬。大切にしまいこんでおかずに今年の冬は、
きてみましょう。6月軽井沢でクラス会がありました。
諏訪から長野善光寺、上田と脚をのばしました。
お城の傍にありました南校はなくなり寂しい限り。
上田映画劇場、松尾町、海野町、原町懐かしくて
車の中からキョロキョロ.みすず飴を求めて帰路に。
来年又クラス会に行きましたら、のんびりと散策してみたいと思いました。一中も染谷も変わったことを知り益々寂しく思いました。
ご繁栄を祈念致します。
みやうちさんと一緒に藤本さんの見学をさせていただきました
佐藤さん、お忙しいところありがとうございました
上田に長いこと住んでいながら、あまりにも身近にある上田紬の美しさや歴史を学ぶ機会がありませんでした
小学校ではカイコを飼った経験をしていますが、それが上田の歴史、文化へつながるなどとは、思いもよりませんでした
みやうちさんが言うように、市民がサポーターでいなければ、長い歴史が途絶えてしまいます
ちょっとハードルが高そうなんですが、
私なりに、応援していきたいです
そして、上田を語れる人が多くなっていくといいなと思っています
投稿者: 小川原有理 | 2008年09月30日 21:51